ご承知のように小泉構造改革でございます。改革が進められているわけでございます。先程の滑川の条例ができるようになったのも確かに私たちの運動とか地方自治体当局の方々、地方自治体側の運動で地方分権というのを求めたことが大きな力でもございますが、「新自由主義」と書いてございますが、小泉改革自身もあるいは今の保守勢力といいますか政権政党も地方分権をおっしゃいます。ですから、地方自治体の運動によって勝ち取った自治立法権ですが地方分権であると同時に彼らが目指している地方分権でもあるわけです。それは何かということがこの2番目の説明です。
A 持ちこまれた経済学的な原理とは
資源配分の最適化のために市場=競争にまかせたほうがよい。粗悪なサービスを行う企業は市場から退出する。(新古典派経済学。マネタリスト、サプライサイドの経済学。代表的な論者として、フリードマン=インフレと失業をどう解消するか。完全雇用は市場によって達成しうるから、ケインズのような財政出動による雇用創出は必要ない)。
ただし、「市場の不完全性(失敗)」はあるので、それは「公共財」という分野でカバーするが、公共財を供給する政府や公共部門についても、「政府の失敗」がおきないようなあり方(最適配分)が求められている(公共選択の理論、公共経済学)。
代表的な論者として、ブキャナン=「民主主義のもとでのケインズ政策が必然的に財政赤字を増大させる」。ケインズ政策は、不況期には公共事業、好況期には増税することになっているが、現実には民主主義的な政治が政治家によって(自分の得票が多くなるように)行われるので、好況期にも増税したり公共支出は削減されない。問題は「民主主義」にある。
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Aを説明すると時間が足りなくなりますので、カタカナの学者の名前、フリードマンとかブキャナンとかいう人がいるのですが、アメリカではこういう議論がされたというぐらいでご理解いただければ良いと思います。ただ、何故経済学の論理を政治に持ち込もうとするのかというのが、そのブキャナンさんが一番いいことをおっしゃっています。先程、政治の論理で歪められるのは仕方がないよ、民主主義ですから国会議員は有権者の方を見ます、だから学者にとってあるべき税制とかあるべき社会保障の改革とかの考え方を曲げてしまうわけです。それは曲げたら困るよという風に学者の方は思っている。そのあたり、例えばAの1番最後の方に書いてありますが、いわゆるケインズ主義、日本もケインズの影響を持った国家政策、経済政策を行っているのですが、不況の時には公共事業をするよ、そして減税をするよ、ここは皆さん同意するのですが、ケインズ主義は好景気になったら増税をして不況の時に公共事業をやるために作った借金とかを返しましょう、だから好況の時には増税をするんだよとケインズは言っているんです。ところが皆さんご承知のように、また普通に考えてもわかるように、好況になったからといって昔の借金を返すために増税すると選挙には落ちますよね。で、ケインズ主義のもとでもアメリカでもイギリスでも場合によっては日本でも好況になっても増税しないんです。それでずっと財政赤字が膨らんでいってしまう。アメリカでもイギリスでもそうです。財政赤字が膨らんだのを何とかしなきゃいけない。今の日本でもそうですね。バブルの後に公共事業をひたすらやってしまったので700兆円くらいの借金が残った。バブルの後は500兆円ぐらいですが、それを好景気になったら返そうあるいは今の財政赤字幅は赤字が大きすぎるので改革しなければいけないというときに、理論的には好況になったら増税をして返しますよと言うのだけれど、政治家が増税をするわけがないので財政赤字がどんどん膨らんでしまう。
そんなんだったらばと言うのでブキャナンさんの結論は、こと経済政策に関しては政治家を入れないで欲しい、我々学者の方で考えた理論モデルに基づいてさせてくれという話になるわけです。
B 市場の失敗をさせないために
まず、情報の非対称性をなくすために、情報公開をする。企業も消費者も対等の情報量をもつとすべてはうまくいく=消費者「保護」から消費者の「権利」へ。「比較可能なかたちで(行革のために)住民にわかりやすく財政情報を公開する」。
しかし、独占や寡占の排除、不確実性・外部性への対応、公共財や準公共財(国防など社会全体で便益が平等。道路など収益逓減なものが準公共財。これらは、市場がないか、あっても不完全にしか供給されないもの)の公的供給など、のりこえられない市場の欠陥(資本主義の「矛盾」)がある。
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ただ、新自由主義の経済学者の方々も市場を失敗させなければいいか、情報公開をして市場を失敗しなければうまくいくか、そこまでも思っていらっしゃらない。やっぱり政府で供給されないといけないものがありますよというのが公共財なんです。だがそうは言いながら、じゃあ全部政府がやればいいやというようなこともおっしゃらないわけです。というのは先程社会主義だとか福祉国家の時に新自由主義の人たちはそういうのは嫌いと批判した最大の理由は社会主義の国家であっても福祉国家であっても官僚制というのができて、官僚制いわば政府がいろいろ介入をしてきたものですから、あるいは規制をしてきたものですから経済活動が出来なくなるということから官僚制を否定するというふうなことを言われます。
C 政府の失敗
不競争による非効率性、労働者個人のインセンティブの欠如、官僚制(あいそが悪いとかタテ割という意味ではなく、「護送船団方式」とか「補助金廃止すると失職するので反対」)。
そこで、競争する。競争には「負け組」が必然的に生まれる。「失敗する自由」はあるか。企業誘致のために、税の減免競争(租税競争)を行う。その理由は、初年度は赤字であるが、長い目で見ると税は回収できるし、従業員の住民税収増や経済波及効果も大きい。
公共工事を「一般競争入札」にすることで、たしかに金額は低くなった一方(効率)、地元発注することでの地域経済のメリットがなくなった。
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Cで「政府の失敗」と書いてありますが、このあたりいろんな論点はございますが、基本的に政府が規制をかけてくるといった形を理解してください。新自由主義の方々あるいは今の小泉改革は規制緩和という単語がございますように政府が規制をするということに対して反発あるいは反対なら規制をしないほうがうまくいくよという話でございます。
大事なとこは下の二行でございます。規制緩和、規制の最たるものが公共工事でございます。指名入札ですよね。あるいは随意契約という話でございます。我々からみても随意契約には不透明さがありますので情報公開すべきなんですが、新自由主義者の手にかかりますと情報公開では手ぬるいので全部一般競争入札にすると、入札価格が低いところに落札するのは何が悪いんだというのが新自由主義者の論理です。学問的には正しいとは思いますが、そうではない価値というのをいわなければいけないのがこちら側であったりします。じゃぁ、一般競争入札にしました、公共工事は上限2億円とか実際によってレベルはございますが、一般競争入札が始まった結果、しかも不景気で大規模な工事をありませんから、ちょっと言葉は悪いですが田舎の方の町役場の5億円ぐらいの小さな道路工事すら中央、東京の大きなゼネコンが取ってしまう。ただ、ゼネコンが一旦取るのですが、実際に仕事をするのは地元の中小の建設業者ですね、よく言われるように半値八掛け二割引とかいう話で、5億円で落札するのだけれども親会社は何もしないで2億円くらいの利益をとってしまうという話です。今週あたりから新聞で明らかになっているように道路工事だとか橋の工事の鉄骨の材料について値上げをしてしまう。定価以上の発注価格にさせるなどという話が出てきてどんどん問題なってしまうのです。一般競争入札にしたって、そういう不正があるのに彼ら新自由主義の規制改革の人たちに言わせれば、随意契約にしたらもっと不透明になってしまうではないかという話で競争入札にしましょうと、先程の消費者の権利の時と同じように、ああいう談合の話、橋の工事で大手の鉄骨メーカーとつるんでやっている談合について新自由主義的な改革の人たちも声をそろえて駄目だといいます。小泉構造改革のもとでも談合はいけないわけです。談合が嫌だ談合はダメだということだけでいうとあの人達と我々は一緒にできるわけです。
D市場による競争はこれまで公的分野で行われてきたことにおいて必要だ。
「民でできることは官はやらない」、「市場化テスト」。そのための行政システム改革。その一環として地方分権、市町村合併も主張する。
競争的地方自治 住民が自ら、負担とサービスを選択する。自己責任と決定。
負担と受益の範囲を見えるようにする。だから市町村合併。
こうして、地方自治体が競争することで、全体としての厚生(効率)があがる、とされる。
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その規制改革が行き着く先ということで、最近はこれはお役所の中でも、今まで役所がやってきたところでも競争しましょうという議論がされています。キーワードというのは「民でできることは官はやらない」これは小泉さんが言っている言葉そのものですが、こういう趣旨の言葉、政策というものが今の国レベルで議論をされています。あるいは「市場化テスト」、今日から国で試行が始まりますが、自治体がやっていることあるいは国がやっていることの入札をしましょうという話です。この入札をするというのは先輩はアメリカ以外ではイギリスのサッチャー行革とかブレア政権のもとでもやられているんですがイギリスの方が先輩です。基本的には、今まで自治体だとか国だとかあるいは国立大学とか独立行政法人という国の機関でやられていたことのコストを考えて民間と競争をしてより安い方で手を挙げた方に落とそうという話が進みつつあります。
今まで自治体がやっていた仕事とか国がやっていた仕事すら競争でございますから、その辺を競争的地方自治といいます。小泉改革の中でも地方分権は進みます。そのキーワードはこの「競争的地方自治」でございます。私たちが考える地方自治は、住民の主権を守るとか権利を守るとか福祉を向上させるという形で地方自治を頑張りましょうというのが私たちが思っているところなのですが、新自由主義的な規制改革の議論では地方自治、地方分権が大切だと言うのは地方自治体が競争しあって競争して競争してそしてよいサービスを提供しましょうという話になるわけです。地方自治体同士で競争しますから彼らの論理からすれば合併というのは必然的でございまして、人口3000人とか500人とか200人とかの小さな村はそもそも競争にならないんだから、競争させるのはかわいそうだから大きくなって10万人とか5万人とか大きな市役所に合併してもらってそこで5万人と5万人の戦いでやってくれというような話なんです。200人では勝負にならないよということで合併して頂戴という話をするわけです。
E効率と公平のトレードオフ(二律背反)
公平を犠牲にしても、効率=社会全体の厚生の最大化を求めるのだと割りきっている。(「山の上に住むことで社会的負担の増となっているので、山を下りてくれ(自らの負担のみで山に住んでくれ)」)。ただし、この考え方では、1であげた事例は解けない。
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最後に、こういう話のいちばんの矛盾ですが、効率と公平のトレードオフという概念があります。新自由主義の経済学者の方々はトレードオフ、二律背反でどっちかを取ったらどっちが出来ないということで、彼らは敢えて効率と公平のどっちかを取らなければいけないのだったらば効率をとりましょうと言います。私たちは逆切れだと思っていますが、公共経済学の方々公正経済学の方々つまり新自由主義の経済学者の方々は効率と公平だったら効率をとりましょうという形で全ての理論を整理されます。割り切った結果、こんなことを言います。山上に住むことで社会的負担が出ます、合併にかかわってこういうことを言った学者の先生がいらっしゃるんです、山の上に住んでいると確かにそこで水道もつけなければいけない道も直さなければいけない社会的負担がありますよその上に住んでる人、集落に住んでる人が山から下りてくれれば道路も整備しなくて済むし水道もつけなくてもいい、そういうことでサービスの費用を下げることができるんだよ、だから上に一人で住まわずに山から下りてちょうだいなどということをおっしゃる方がついに出てきちゃいました。ここまでいくと、もう学者ではなくて何か数字の鬼みたいになってしまいますが、突き詰めれば新自由主義の方々はこうなります。効率と公平でいうと効率の方を優先します。効率を求めることで社会全体の支えるサービスの総量も増えるし負担も減るよということになります。ただこの論理では、1のところで最初に話した事例は解けません。飯館の話、あるいは法定外目的税の話、あるいは合併してもしなくても、住民サービスの負担を了解する人の話、住民税の増税を合意する話なんていうのは、効率と公平のトレードオフで効率がいいよという人たちはちんぷんかんぷんなんですね。こんなことはあってはいけないのです。住民は増税は絶対認めてはいけないというのが彼らのモデルの1番の基礎でございますので、山の木を守るためにといって増税を呑んでしまった岡山県民とか高知県民というのは彼らの論理からすれば?なんです。よくわからないんです。そこが、私たちが突ける話、そして存在するというのが3番目でまちの研究所の話をします。最初に申しましたように、私自身最初の事例なんかはどれが正解かということはよくわかりません。そこの地域の人たちがそれで良しとしたのがとりあえず正解ではないかというふうにとりあえず考えています。私自身が住民税の増税に賛成するかどうかは、私は東京都民ですから東京都でどうするかという議論はした方がいいと思っていますが、高知県民とか岡山県民方がなぜこういう選択をしたかについて、彼らはおかしいとか彼らはいいとか、おかしいといってはいけないんだったらいいというのもおかしいわけですから、やっぱり岡山県の人たちが決めればいいことではないか、高知県の人たちが決めればいいことではないかというふうにとりあえず思っています。今は500円くらいの話なので、こういうのが1万円くらいの増税になったりするとどうなのかとか介護保険は今見直しの議論が各地で始まっていますが、利用料の問題をどうしようか年金から天引きしようかしまいかという話になってくるとすごくわかりづらくなってくるのでございますが、ただ、やはりその地域地域で決めた結論というのを少なくともよその地域の人間がおかしいというのは、やはり言わないほうがいいのかな、おかしいといったらいけないということは正しいといってもいけないのかなと思っているところです。結局、その地域地域で決めてちょうだいねということかなと思っているわけです。
3、各地ですすむ「まちの研究所」
「学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。(中略)
人類が将来どうなるか、それは誰がきめるのか。これはすべての政府・非政府組織、個人、グルーブが直面している問題である。これはまた、成人の教育活動に従事している女性と男性が、そしてすべての人間が個人として、集団として、さらに人類全体として、自らの運命を自ら統御することができるようにと努力している女性と男性が、直面している問題でもある(ユネスコ学習権宣言)」。
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Bそんなこといわなくても「まちの研究所」って楽しい
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