とちぎ地域自治研究所第4回定期総会記念講演

2005年7月2日

今後の研究所活動の発展方向を考える

−「まちの研究所」を中心とした、地域にねざした研究所活動のために−

自治体問題研究所・中島正博

 

 はじめに

 「まちの研究所」は、小泉構造改革の対抗軸になりうるか

 なぜ、いま、「まちの研究所」か。あるいは、住民参加なのか、住民協働なのか。

 中央指令型社会主義でも福祉国家でもない、人権と平和、産業振興のための地方自治。

 今日のタイトルが、今後の研究所活動の発展方向を考えるということですが、地域の自治体問題研究所というものがこれからはどういうふうに伸びていこうかという問題意識で考えております。結論的に言いますと、私どもは「まちの研究所」、基礎的自治体市町村レベルで「まちの研究所」のネットワークをつくることで広げていこうと思っています。この栃木の研究所もそうですが、「住民と自治」の巻末を見ていただくとおわかりのように都道府県レベルで自治体問題研究所、地域ごとに名称は違いますが、30箇所ございます。この秋に宮崎でできるとか、来年には石川でできるとかいくつかございまして、だんだん47都道府県の全てで研究所をつくるつもりでございます。
 そうは言っても栃木県も広いわけでございまして、一番狭い都道府県、大阪とか香川といったところでは比較的集まりやすいのですが、例えば北海道などということになってきますと、札幌で会合をやるためには飛行機に乗らなければならないというようなところでございますと、なかなか集まりづらい。さらに北海道でいますと道政、ここ栃木で言いますと栃木県政のことを考えるだけではなくて、やはり身近な生活地域、すなわち基礎的自治体、市町村あるいはその内部のところでいわゆるまちづくりといいますか、そういうことを考えなければならなくなるといったことから、市町村レベルで「まちの研究所」をつくるんだ、ネットワークをつくるんだ、先程の町長さんの話では仲間をつくるんだということですが、そういう仲間をつくることでまちを考えていく、といった方向が多分これからの地方自治を作っていく、ないしは内実を充実さしていくといったものかなというふうに私どもは考えております。そんなことで「まちの研究所」というネーミングをしまして、市町村レベルあるいはもっと広域でもいいのですが、地域のことを考える人々のネットワークを作りましょうということを考えております。

 事務局長佐々木さんの方からは、小泉構造改革とか今の情勢の話からまちの研究所を作ったら対抗軸になるか、反撃出来るかということについてもお願い出来ないかと言う趣旨のことを言われました。結局、まちの研究所というのは地方自治あるいは民主主義をつくるんだといったことについてもう少し説明をした方がいいのかなという観点でございます。

繰り返しになりますが、具体的には、私自身も住民として関わったのか西東京市という4年前に合併したところですが、そこで西東京市の市民白書というものを作らさせていただきました。そこでは西東京版のまちの研究所を作ったと思っているのですが、そういうことで地方自治を作っていくネットワークを作っていくことが地方自治の充実に繋がるという感じを持っているところです。

 はじめに、書いてあるところでいいますと、三行目のところで前の自治体問題研究所の理事長でありました宮本憲一先生が、地方自治がなぜ大事かというときによくおっしゃる言葉ですが、いわゆるソ連ですとか中央指令型の社会主義というのがある、崩壊しましたが、福祉国家今も北欧を中心に残っていたりしますが、いずれも官僚制というものができてしまいます。国家にしても地方自治体にしても、その弊害というものがどうしてもできてしまう。その官僚制の弊害というものを突いてきたのが、新自由主義と言われるような立場の方々なんですが、官僚制のために非効率ができているではないかということに対して有効に反撃出来なかった。官僚制の弊害を自ら正すような努力というものが必要なのではないか、宮本先生の議論でいうとそういうふうに思っておりますが、官僚制の弊害を正せるというのは地方自治だろうあるいは民主主義だろうというふうに思います。

 市町村合併の議論で、私たちは合併反対派というふうに言われるところが多いわけですが、なぜかというと、大きくなると官僚制が出来上がって民主主義が働かなくなってチェックが出来なくなるからでございます。大きくなっても勿論、民主主義のチェックと言うのは必要であって、そういうものが作れれば合併して大きくなっても構わないかと思いますが、一般的にはなかなか難しいことがございますので、私どもはできる限り小さい方がいい、少なくとも住民の手が届く範囲の自治体の方がいいなというふうに思っているところでございます。
 

 1、いくつかの事例を通じて考える自治とは、民主主義とは

 最初に、「いくつかの事例を通じて考える自治とは、民主主義とは」についてお話をしたいと思います。結論的にいますと、この四つの事例について正確な答えと言うのはありません。これが絶対正しいんだよ。これが21世紀の地方自治だよというつもりでご紹介したのではありません。何かを考えるキッカケ、題材として取り上げさせていただきました。

@福島県飯館村「どちらかが6割をこえると従う」住民投票(単純多数決でない)

   →合併協議会参加45%、不参加55%で、協議会には参加。

   →合併協議を続けるかを争点にして村長辞任、選挙、現職当選

   →議会が法定協離脱決議。自立へ。

 

まず、福島県飯館村ですが、住民参加の村おこしで頑張られている比較的有名な村です。福島県では北の方の村です。ご多分にもれず平成の大合併の中で、合併の議論が行われました。合併協議会に参加するかどうかという段階で、住民投票が行われました。私どもが見ておりまして、多分ここだけかなと思うことは、過半数ではないんです。決めるのは60%を超えた方でやりますということが条例に書かれて、住民投票がやられました。住民投票というのはだいたい過半数でいいわけですね。51対49でもいいわけですが、ここは60でございました。ふたを開けてみると、合併協議会への参加が45%、参加しないというのが55%でございました。6割を超えると従うですから、どちらも6割を超えていませんから態度を保留するのかと思いましたら、ここの菅野村長さんは合併協議会には参加しようと。というのは不参加が6割を超えていないのだから参加しようじゃないかというご発言をされて、協議会には参加をされました。ところが、この村長さん自身は、自立を目指される合併はやりたくないということを公言されていた方でございましたので、合併協議をする中で様々な疑問点がでてくるという形を公表されまして、協議会の中でもご議論をされて住民にも公表をして、やはりこのまま合併協議を続けるわけにはいかない、ということで村長さんをお辞めになる。辞任をされて選挙をされます。そして、村長さん自身が再選をされます。確か、合併をしたいという対抗馬の方も出ました。でも、合併をしないという村長さんが当選をされました。議会もだいたい4対6位で合併しない。要するに自立派が6割で合併派が4割位だったのですが、村長さんが勝っちゃいましたので、これが半ば住民投票の代わりの結論でしたので、議会では確か全員一致、全員賛成で合併協議会からの離脱を決めました。

 これで何を考えるかというと、6割という条件ですね。投票率が6割ないと開票しないというのがあったりするのですが、6割を超え方に従うということです。飯館村の場合は、実際はどちらも6割を超えていないのだけれども合併協議会に参加しました。不参加が6割を超えていないから参加しましたというのは論理が何かひっくり返っています。こういう形がいいのかどうか、結果として自立したからいいのかどうかということではなしに、6割を超えたら従うんだったらどちらかが6割を超えるまで2回でも3回でも住民投票を続けるべきと言いますか、3カ月後にもう1回投票しましょうとかという話があってもいいのではないかと思います。

 ちょっと脱線しますが、来月号の住民と自治に載りますが、平成の合併をめぐって住民投票というのは349件起きているそうです。そのうち200件が合併賛成、150件が合併反対という結論のようですが、続けて2回やった例はそんなにないんです。枠組みが変わってしまったので、この町と合併したいよと決めたのだけれどこの町の方が合併しないと決めたのでもう1回投票をしたとか、そういう例あるようなのですが、6割を超えるようなところでもう1回決めましょうというような例はあまりありません。飯舘くらいでもう1回やってくれても良かったかなと思うところがあります。そのへんのところが民主主義の議論として考えたいと思っているところでございます。

A法定外目的税条例の成立

 これまでは、産業廃棄物税や原子力発電所税など企業負担。さいきんでも多くの所で、住民ではない者も含む負担増(遊漁税。太宰府市。不成立の杉並区レジ袋税)。
森林環境税(高知県、岡山県)のように、県民負担増の例をどう考えるか。

  

二つ目が税金、目的税の話です。地方分権とか三位一体という中でこういう話が、これからまたぞろ出てくるはずです。今までは、法定外目的税あるいは超過課税といった議論がありますが、産業廃棄物の税金とか原子力発電所税ですとか日立さんみたいな大きな工場に超過課税をするのが多かったんですね。相手はだいたい企業でした。企業というのはご承知のように選挙権がございませんから、あるいは大企業の社会的責任という住民の声を受けて超過課税をしたり目的税をかけたわけです。

最近の動きは、山梨県の山中湖の周ですが、釣りをする人に税金をかける遊漁税、大宰府の方では太宰府天満宮にお参りにきた人の駐車場に100円から200円の税金をかける。それから、成立しませんでしたが杉並区ではスーパーで買ったレジ袋に1枚2円とか5年の税金をかけるという話です。このあたり、特に遊漁税、山中湖に釣りに来るお客さんというのは、地元の村人もいますが大体は東京の人です。大宰府もそうです。太宰府天満宮に来る方は、例えば福岡市内であったり北九州市内であったり、場合によっては東京だったり大宰府の市民ではないわけです。杉並区の場合はほとんど買い物袋ですから、大体杉並区民なんですが、当然区外の人が買い物をしたときのレジ袋にも税金がかかりますから、住民だけではないわけです。杉並の場合は成立しませんでしたが、遊漁税と大宰府では成立しました。ただその後、大宰府の方は、駐車場を利用される方に100円か200円上乗せしました。しかも全ての駐車場がその駐車場税をとらなかったんです。アウトサイダーといいますか「うちはとらないよ」という駐車場が出て来て、だいぶ混乱をされました。

その一方で、住民からは取らないよという税金でなかなか悩ましかったにもかかわらず、住民に直接増税しちゃった例というのが出来ちゃいました。森林環境税と書いてありますが、高知県と岡山県、高知県は3年くらい前、岡山県はこの4月から始まっています。県民税の中の均等割というのを、今は確か500円か1000円ですが、それにプラス500円をかける超過課税をしました。県民自身に増税をした話です。高知県では3年間くらい議論されて、実施をされています。岡山県では2年くらいかけていますが、結局、増税をしたという話です。これも考えていいのは、山の木を守るためにある程度の費用負担はやむを得ない、仕方がないということで増税にはなるのですが、増税には変わりはないわけです。年金を充実させるために消費税を上げると言われたときに我々がどう考えるかというのと、山の木を守るために増税をするぞというのをどう考えるかということが問われてくるわけでございます。

B「権利を制限し、義務を課す」まちづくり条例

真鶴町美の条例、滑川市などの大型店規制、国立市などのマンション規制(景観)。

基礎自治体の内部で、いくつかの地域地区にわけて土地利用調整を行う。
本来自由であるべき私有地の土地利用を相互に調整する。つまり、私権の制限は、法律・条例によってしかできないが、これに踏み込む例がではじめている。

三番目、「権利を制限し義務を課す」いわゆるまちづくり条例なんですが、建築基準法の規定を上回る規制をかけるという例が始まっています。神奈川県真鶴町の美の条例は、リゾートマンションが出てきたものですからそのリゾートマンションを止めるために条例を作ったわけです。それから、富山県の滑川では、郊外の大きな道路、バイパス沿いにスーパーマーケットを建てるのはやめて今の中心市街地の方をもっと活性化しようよというために、道路沿いにスーパーを立地させないという条例を作られました。国立では、これはニュースなどでも出ていますが、JR国立駅の南側、一橋大学のあるところですが、2キロくらい先で駅からは見えないのですが、40メートルくらいの高さのマンションを建てようという話です。これは建ててしまったので問題なのですが、建てている最中に国立市としてはこの大学通りと言うメインストリートには高さ20メートル以上の建物は建てられないという条例を作られましたので新聞でも話題になりました。建てている最中に条例を作ったので実際はなかなか難しいのですが、そのような話がございます。
 
基礎的な自治体の内部でいくつかの地域地区に分けて利用制限を行うという例があります。これのキッカケは、兵庫県の宝塚市、ここは宝塚歌劇団があったりして文教都市なのですが、ここでパチンコ店は要らないよという条例を作られたんです。ところが、宝塚市全域でパチンコ店は要らないよという条例だったものですからパチンコ店の方から訴えられまして、結局、宝塚市の方が負けました。確かに、文教都市だからパチンコ店は要らないという趣旨は分かるけれども宝塚市全域で規制するのは行き過ぎたというのが判決でございました。それを受けたものですから、その後に出てきたのが真鶴とか
滑川で、市内をいくつかの地域に分けてこの地域はやっぱりパチンコ店は要らないよ、この地域は20メートル以上のマンションは建たないよ、この地域はスーパーマーケットは要らないよ、という条例が出来つつあるわけです。

 だから、よく考えてみれば、これが分からないところなのですが、私どもも真鶴がいいよとか滑川がいいよとか紹介する本を作っていますが、完全に諸手をあげづらいところは、でもマンションを建てたいよとかスーパーマーケットを作りたいよとかいう方もいらっしゃいますし、それを制限できるかどうかと言われると、ちょっと困る。自分が逆に地権者の方だったときに条例で決められるというのが本当にいいのかというところが悩ましいところでございます。建築基準法という法律のもとでは地区計画とか建築協定という仕組みがありまして、これらは全員一致でみんなが同意すれば、例えばマンションを建てないとか高さが3階建て以上の家を建てないだとかいろいろなことが出来ます。長嶋茂雄元巨人軍監督がいらっしゃる田園調布という高級住宅街では確か100坪だったと思いますが、100坪以下の面積の敷地は認めないという建築協定があります。これは全員一致でございます。ところが、条例では多数決なんです。多数決でお前はこの土地にマンションを建ててはいけないよということを決めていいのかどうか、一応決めていいので条例を定めていますが、そういうような仕組みがございます。だから、両刃の刃になりかねないわけです。

ということで、民主主義を考える題材になるかということでございます。スーパーマーケットが来ないよということだけ見れば良い条例なのですが、でも、その後変わってきたら営業活動が出来ないよとかパチンコ店が出来ないよとかいろんなことになってしまう。かえって自分の方にも規制がかかるかもしれない。しかも多数決でやられるかもしれないといった両刃の刃というものがございます。

 

C合併しない市町村の自律プラン

 住民負担増、住民サービスの低下、自ら汗を流す道直し

四番目、「合併しない市町村の自律プラン」です。あえて固有名詞をあげなかったのですが、合併しないで自立を決断された多くのところで、合併しないからではないのですが、合併してもしない所でも三位一体の改革ですとか地方交付税の減額が始まっていますので、合併しないとあえて書いていますが合併したところともそうです。住民負担が上がってきています。使用料手数料とか保育料とかが上がってきています。あるいはこれから上げられようとしています。今までやってきた集落や町内会への補助金というのが切られたりしています。これからは道直しとか道路工事、長野県で有名ですが、原材料だとかブルドーザーを貸すので住民の方々が自分で汗をかいて道を作ってくれ、道を直してくれという話が出てきています。合併しないところが典型ですが、合併したところでもございますが、今まではそういうことは基本的に役所がやってくれたわけでございます。合併しない、自立だと言いつつも結局汗を流せというのかいというような反発といいますか感覚というものがございます。この原因は、合併するかしないかというよりは、三位一体改革とか交付税が減ったこととか補助金だけが減って交付税で返してくれなかったことだとかそちらの方ですので、実は合併したところでも起きていることではありますが、今まで役所がやってきたことが住民に変えられているというところがございます。

繰り返しますが、この辺のところは私自身もどちらが正解かというふうには思っていません。もっと結論的に言ってしまうと、その町の人がいいと思うならそれが正解なんだというふうに思っております。滑川の人がいいと思ったらスーパーマーケットは国道沿いにでなくてもいいよ、あるいは逆に道路沿いにスーパーマーケットが来て大きな駐車場もついてそれで便利だからという地域はそれでもいいだろうし、うちはイヤだよというところはイヤでもいいです。そういう判断なのかなというふうにも思っております。


2、小泉構造改革と、それを支える「新自由主義」の思想的背景

@80年代アメリカ 経済学的な原理と方法を政治に持ち込む。
 レーガンの税制改革 「公正、簡素、経済成長のための税制改革」。個人所得税については、課税ベースの拡大と累進税率の大胆なフラット化
 日本でも、経済財政諮問会議の民間議員、各種審議会など、「経済の原理」を政治に持ちこもうとする動きがある。その中には、道路特定財源廃止論(道路特定財源にしか使えず無駄な道路がつくられるので廃止する)など、政策的には共感するところもある。

 ご承知のように小泉構造改革でございます。改革が進められているわけでございます。先程の滑川の条例ができるようになったのも確かに私たちの運動とか地方自治体当局の方々、地方自治体側の運動で地方分権というのを求めたことが大きな力でもございますが、「新自由主義」と書いてございますが、小泉改革自身もあるいは今の保守勢力といいますか政権政党も地方分権をおっしゃいます。ですから、地方自治体の運動によって勝ち取った自治立法権ですが地方分権であると同時に彼らが目指している地方分権でもあるわけです。それは何かということがこの2番目の説明です。

それで「新自由主義」とは何ですかといったときの定義はありません。いろいろな派閥の学者の方々のいろいろな学説を総体としてひっくるめたのが「新自由主義」だというふうに理解していただくのが一番正確だと思います。学者の中には我こそが「新自由主義」だと言われる方がいらっしゃるようなのですが、日本だとかアメリカだとかイギリスで行われている改革というのを総じて新自由主義的改革というふうに一般的に言うのですが、いろんな潮流といいますか派閥といますかがございます。その派閥の中には、例えばノーベル経済学賞を取られたような方もいらっしゃいますので、新自由主義の中の論議がおかしいとかあるいは誤りだとかいうのはすごく失礼な話といいますか、そこまでいいきれないと彼らなりの論理の正しさというのもあるところでございます。そんなことがまず前提でございます。

それで、何から持ち出すか、今、日本とアメリカ、イギリスと申しました。他の国を調べているわけではありませんが、基本的にはフランスとかドイツ、北欧ではあまりない論理でございます。新自由主義的な改革が行われているのは基本的には日本とアメリカとイギリス、しかも1980年代以降、名前で言いますとアメリカではレーガン以降、イギリスではサッチャー以降、日本では中曽根以降ということでいわれるところでございます。共通しているのは何ですかといいますと、改革をするのですが政策を進めるにあたって経済学的な論理でやりましょうということです。一番有名なのがレーガンの税制改革の話で、「公正、簡素、経済成長のための税制改革」という厚い提言を学者が作りまして、それをアメリカでの税制調査会みたいなところで追認をいたしまして、レーガンがそれを大統領教書にすると、もともとの理論の本と税制調査会での議論とレーガンのところでちょこちょこっと変えられます。変更点がたくさんあります。人によっては換骨奪胎されたという人もいますし、原案通りだという方もいらっしゃるのですが税制改革というものを経済学の論理で考えられましたということです。いま日本でも、先々週くらい答申が出ていたのは政府の税制調査会の話です。主に学者の先生方が委員になり昔は大蔵省の職員が原案を書いていたのですが、最近は学者の方が結構書かれる。今は石さんですしその先代の会長さんは加藤寛という慶応大学の先生でございました。学問的には、この新自由主義と言われている先生方ですが、経済学の論理で書くのが政府税調で、これが秋になると与党、自民党の税制調査会がありますが、この間有力者が亡くなったり落選したりで政治的影響力は落ちているとか言われているところです。結局、税制というのは減税する方は余り文句は出ないですが、増税するのがセットになりますからそれを決めた与党の国会議員は場合によっては命がけで決めるわけです。消費税の時には自民党議員さんは結構落ちました。でも消費税は導入されたわけです。消費税を導入すべきだというのは政府税調レベルでは何回もやられたりするのですが、それを最後に法案にするのは自民党の税調だったわけです。ただ、そういうときに本来理論的に経済学的に正しかったと思っていた政府税調の答申が自民党の手にかかるとといいますか、政治にするわけですから、自分たちの首が飛ぶかもしれないと思ってもう1回議論するわけですから内容が変えられたりするわけです。元々の原案を作った経済学者の方でいうと嫌な訳です。政治の力関係とか綱引きで自分たちの書いた基本原理といいますか答申といますか、自分たちは経済学的には正しいと思っている答申書、あるべき税制の議論というのが政治によって歪められてしまう。それはおかしいよということがあったものですから、極力、政治を答申から排除するような動きというのがございます。これが新自由主義では比較的共通しています。日本でも経済財政諮問会議ですが、この中に大学の先生が入っていらっしゃいます。日銀の総裁だとか、財務大臣、総務大臣とかも入っていますが、吉川先生とか、本間先生とかの大学の先生が入っています。これに経済界の代表が入っています。一般的に民間議員と言って四人ほどいるのですが、この諮問会議の民間議員、特に学者の先生が理論的なイニシアチブをもって書かれているというのが諮問会議とか税調の議論だというふうにご理解ください。結論的にいますと、基本的に経済学の原理で世の中を動かしたいという話です。


A 持ちこまれた経済学的な原理とは

 資源配分の最適化のために市場=競争にまかせたほうがよい。粗悪なサービスを行う企業は市場から退出する。(新古典派経済学。マネタリスト、サプライサイドの経済学。代表的な論者として、フリードマン=インフレと失業をどう解消するか。完全雇用は市場によって達成しうるから、ケインズのような財政出動による雇用創出は必要ない)。
 ただし、「市場の不完全性(失敗)」はあるので、それは「公共財」という分野でカバーするが、公共財を供給する政府や公共部門についても、「政府の失敗」がおきないようなあり方(最適配分)が求められている(公共選択の理論、公共経済学)。
 
代表的な論者として、ブキャナン=「民主主義のもとでのケインズ政策が必然的に財政赤字を増大させる」。ケインズ政策は、不況期には公共事業、好況期には増税することになっているが、現実には民主主義的な政治が政治家によって(自分の得票が多くなるように)行われるので、好況期にも増税したり公共支出は削減されない。問題は「民主主義」にある。

 Aを説明すると時間が足りなくなりますので、カタカナの学者の名前、フリードマンとかブキャナンとかいう人がいるのですが、アメリカではこういう議論がされたというぐらいでご理解いただければ良いと思います。ただ、何故経済学の論理を政治に持ち込もうとするのかというのが、そのブキャナンさんが一番いいことをおっしゃっています。先程、政治の論理で歪められるのは仕方がないよ、民主主義ですから国会議員は有権者の方を見ます、だから学者にとってあるべき税制とかあるべき社会保障の改革とかの考え方を曲げてしまうわけです。それは曲げたら困るよという風に学者の方は思っている。そのあたり、例えばAの1番最後の方に書いてありますが、いわゆるケインズ主義、日本もケインズの影響を持った国家政策、経済政策を行っているのですが、不況の時には公共事業をするよ、そして減税をするよ、ここは皆さん同意するのですが、ケインズ主義は好景気になったら増税をして不況の時に公共事業をやるために作った借金とかを返しましょう、だから好況の時には増税をするんだよとケインズは言っているんです。ところが皆さんご承知のように、また普通に考えてもわかるように、好況になったからといって昔の借金を返すために増税すると選挙には落ちますよね。で、ケインズ主義のもとでもアメリカでもイギリスでも場合によっては日本でも好況になっても増税しないんです。それでずっと財政赤字が膨らんでいってしまう。アメリカでもイギリスでもそうです。財政赤字が膨らんだのを何とかしなきゃいけない。今の日本でもそうですね。バブルの後に公共事業をひたすらやってしまったので700兆円くらいの借金が残った。バブルの後は500兆円ぐらいですが、それを好景気になったら返そうあるいは今の財政赤字幅は赤字が大きすぎるので改革しなければいけないというときに、理論的には好況になったら増税をして返しますよと言うのだけれど、政治家が増税をするわけがないので財政赤字がどんどん膨らんでしまう。
 
そんなんだったらばと言うのでブキャナンさんの結論は、こと経済政策に関しては政治家を入れないで欲しい、我々学者の方で考えた理論モデルに基づいてさせてくれという話になるわけです。


B 市場の失敗をさせないために

 まず、情報の非対称性をなくすために、情報公開をする。企業も消費者も対等の情報量をもつとすべてはうまくいく=消費者「保護」から消費者の「権利」へ。「比較可能なかたちで(行革のために)住民にわかりやすく財政情報を公開する」。
 
しかし、独占や寡占の排除、不確実性・外部性への対応、公共財や準公共財(国防など社会全体で便益が平等。道路など収益逓減なものが準公共財。これらは、市場がないか、あっても不完全にしか供給されないもの)の公的供給など、のりこえられない市場の欠陥(資本主義の「矛盾」)がある。

 この論理、経済学の論理、近代経済学の論理ですが、基本的には新古典派経済学と言ったり新市場主義というような派閥の傾向がこの「新自由主義」の人たちです。新古典派、新市場主義といいますように、市場なんですね。ケインズは国家が好景気・不景気に市場に介入して何かしましょうというふうに考えているのですが、やっぱり国は国家、行政が介入してはいけないよというのがこの新自由主義の方々の立場といいますか考え方でございます。なぜかというと、アダムスミスは神の見えざる手で市場で決まるという有名な言葉がございますが、それをもう1回持ってくるので新古典派、新市場主義とかいうのですが、ただ、もうアダムスミスの時代と違って、学問も発展しておりますので、市場をそのままにしておいたらやはり不公平が出るとか不平等が出るとかおかしいところがで出てしまうというところは彼ら新自由主義の人たちも認めますので、市場の失敗をさせないための工夫が必要だよということをおっしゃいます。特に問題にされるのは、情報の非対称性といいます。会社があって商品を作ってそれを私たちがお客さんとして買います。その商品の性能とか不具合というのは基本的には会社側はみんな知っていますがユーザーの方は知りません。そうすると会社の方は嘘ごまかしというのはあってもいいよ、あるかもしれない。その会社側の方で情報公開をさせるという発想になっています。お気づきになっているかもしれませんが、製造物責任法とか最近の消費者の権利、消費者保護行政から消費者の権利行政に変わりつつあるのですが、消費者の権利法とか言われるような流れが会社の情報公開をさせる話です。品質表示だとか食品衛生のラベルですとかそういう形の情報公開をさせると何が入ってるか、食品添加物だとか色素だとかというのはこの流れでございます。基本的に会社と住民といいますかサービスの受け手、消費者の方が同じ情報を持ってその結果選択をして、いうのが市場で取り引きされるんだということです。で、新自由主義者の方々もそういう市場にしなければいけないので、例えば、製造物責任法は進めます。会社の情報を公開させるというのも進めます。品質表示のラベルで嘘を書いたりすると一番怒るのが新自由主義者の人です。私たち以上に怒ります。そんなことをやったら市場が失敗するからです。会社は情報を全て公開しなければいけないということ彼らもいいます。そんな話が市場の失敗をさせないところの話です。公共財の話は飛ばさせていただきます。

ただ、新自由主義の経済学者の方々も市場を失敗させなければいいか、情報公開をして市場を失敗しなければうまくいくか、そこまでも思っていらっしゃらない。やっぱり政府で供給されないといけないものがありますよというのが公共財なんです。だがそうは言いながら、じゃあ全部政府がやればいいやというようなこともおっしゃらないわけです。というのは先程社会主義だとか福祉国家の時に新自由主義の人たちはそういうのは嫌いと批判した最大の理由は社会主義の国家であっても福祉国家であっても官僚制というのができて、官僚制いわば政府がいろいろ介入をしてきたものですから、あるいは規制をしてきたものですから経済活動が出来なくなるということから官僚制を否定するというふうなことを言われます。


C 政府の失敗

 不競争による非効率性、労働者個人のインセンティブの欠如、官僚制(あいそが悪いとかタテ割という意味ではなく、「護送船団方式」とか「補助金廃止すると失職するので反対」)。
 そこで、競争する。競争には「負け組」が必然的に生まれる。「失敗する自由」はあるか。企業誘致のために、税の減免競争(租税競争)を行う。その理由は、初年度は赤字であるが、長い目で見ると税は回収できるし、従業員の住民税収増や経済波及効果も大きい。
 公共工事を「一般競争入札」にすることで、たしかに金額は低くなった一方(効率)、地元発注することでの地域経済のメリットがなくなった。


 Cで「政府の失敗」と書いてありますが、このあたりいろんな論点はございますが、基本的に政府が規制をかけてくるといった形を理解してください。新自由主義の方々あるいは今の小泉改革は規制緩和という単語がございますように政府が規制をするということに対して反発あるいは反対なら規制をしないほうがうまくいくよという話でございます。

大事なとこは下の二行でございます。規制緩和、規制の最たるものが公共工事でございます。指名入札ですよね。あるいは随意契約という話でございます。我々からみても随意契約には不透明さがありますので情報公開すべきなんですが、新自由主義者の手にかかりますと情報公開では手ぬるいので全部一般競争入札にすると、入札価格が低いところに落札するのは何が悪いんだというのが新自由主義者の論理です。学問的には正しいとは思いますが、そうではない価値というのをいわなければいけないのがこちら側であったりします。じゃぁ、一般競争入札にしました、公共工事は上限2億円とか実際によってレベルはございますが、一般競争入札が始まった結果、しかも不景気で大規模な工事をありませんから、ちょっと言葉は悪いですが田舎の方の町役場の5億円ぐらいの小さな道路工事すら中央、東京の大きなゼネコンが取ってしまう。ただ、ゼネコンが一旦取るのですが、実際に仕事をするのは地元の中小の建設業者ですね、よく言われるように半値八掛け二割引とかいう話で、5億円で落札するのだけれども親会社は何もしないで2億円くらいの利益をとってしまうという話です。今週あたりから新聞で明らかになっているように道路工事だとか橋の工事の鉄骨の材料について値上げをしてしまう。定価以上の発注価格にさせるなどという話が出てきてどんどん問題なってしまうのです。一般競争入札にしたって、そういう不正があるのに彼ら新自由主義の規制改革の人たちに言わせれば、随意契約にしたらもっと不透明になってしまうではないかという話で競争入札にしましょうと、先程の消費者の権利の時と同じように、ああいう談合の話、橋の工事で大手の鉄骨メーカーとつるんでやっている談合について新自由主義的な改革の人たちも声をそろえて駄目だといいます。小泉構造改革のもとでも談合はいけないわけです。談合が嫌だ談合はダメだということだけでいうとあの人達と我々は一緒にできるわけです。


D市場による競争はこれまで公的分野で行われてきたことにおいて必要だ。

 「民でできることは官はやらない」、「市場化テスト」。そのための行政システム改革。その一環として地方分権、市町村合併も主張する。
 
競争的地方自治 住民が自ら、負担とサービスを選択する。自己責任と決定。
 
負担と受益の範囲を見えるようにする。だから市町村合併。
 
こうして、地方自治体が競争することで、全体としての厚生(効率)があがる、とされる。


 その規制改革が行き着く先ということで、最近はこれはお役所の中でも、今まで役所がやってきたところでも競争しましょうという議論がされています。キーワードというのは「民でできることは官はやらない」これは小泉さんが言っている言葉そのものですが、こういう趣旨の言葉、政策というものが今の国レベルで議論をされています。あるいは「市場化テスト」、今日から国で試行が始まりますが、自治体がやっていることあるいは国がやっていることの入札をしましょうという話です。この入札をするというのは先輩はアメリカ以外ではイギリスのサッチャー行革とかブレア政権のもとでもやられているんですがイギリスの方が先輩です。基本的には、今まで自治体だとか国だとかあるいは国立大学とか独立行政法人という国の機関でやられていたことのコストを考えて民間と競争をしてより安い方で手を挙げた方に落とそうという話が進みつつあります。

  今まで自治体がやっていた仕事とか国がやっていた仕事すら競争でございますから、その辺を競争的地方自治といいます。小泉改革の中でも地方分権は進みます。そのキーワードはこの「競争的地方自治」でございます。私たちが考える地方自治は、住民の主権を守るとか権利を守るとか福祉を向上させるという形で地方自治を頑張りましょうというのが私たちが思っているところなのですが、新自由主義的な規制改革の議論では地方自治、地方分権が大切だと言うのは地方自治体が競争しあって競争して競争してそしてよいサービスを提供しましょうという話になるわけです。地方自治体同士で競争しますから彼らの論理からすれば合併というのは必然的でございまして、人口3000人とか500人とか200人とかの小さな村はそもそも競争にならないんだから、競争させるのはかわいそうだから大きくなって10万人とか5万人とか大きな市役所に合併してもらってそこで5万人と5万人の戦いでやってくれというような話なんです。200人では勝負にならないよということで合併して頂戴という話をするわけです。


E効率と公平のトレードオフ(二律背反)

 公平を犠牲にしても、効率=社会全体の厚生の最大化を求めるのだと割りきっている。(「山の上に住むことで社会的負担の増となっているので、山を下りてくれ(自らの負担のみで山に住んでくれ)」)。ただし、この考え方では、1であげた事例は解けない。


 最後に、こういう話のいちばんの矛盾ですが、効率と公平のトレードオフという概念があります。新自由主義の経済学者の方々はトレードオフ、二律背反でどっちかを取ったらどっちが出来ないということで、彼らは敢えて効率と公平のどっちかを取らなければいけないのだったらば効率をとりましょうと言います。私たちは逆切れだと思っていますが、公共経済学の方々公正経済学の方々つまり新自由主義の経済学者の方々は効率と公平だったら効率をとりましょうという形で全ての理論を整理されます。割り切った結果、こんなことを言います。山上に住むことで社会的負担が出ます、合併にかかわってこういうことを言った学者の先生がいらっしゃるんです、山の上に住んでいると確かにそこで水道もつけなければいけない道も直さなければいけない社会的負担がありますよその上に住んでる人、集落に住んでる人が山から下りてくれれば道路も整備しなくて済むし水道もつけなくてもいい、そういうことでサービスの費用を下げることができるんだよ、だから上に一人で住まわずに山から下りてちょうだいなどということをおっしゃる方がついに出てきちゃいました。ここまでいくと、もう学者ではなくて何か数字の鬼みたいになってしまいますが、突き詰めれば新自由主義の方々はこうなります。効率と公平でいうと効率の方を優先します。効率を求めることで社会全体の支えるサービスの総量も増えるし負担も減るよということになります。ただこの論理では、1のところで最初に話した事例は解けません。飯館の話、あるいは法定外目的税の話、あるいは合併してもしなくても、住民サービスの負担を了解する人の話、住民税の増税を合意する話なんていうのは、効率と公平のトレードオフで効率がいいよという人たちはちんぷんかんぷんなんですね。こんなことはあってはいけないのです。住民は増税は絶対認めてはいけないというのが彼らのモデルの1番の基礎でございますので、山の木を守るためにといって増税を呑んでしまった岡山県民とか高知県民というのは彼らの論理からすれば?なんです。よくわからないんです。そこが、私たちが突ける話、そして存在するというのが3番目でまちの研究所の話をします。最初に申しましたように、私自身最初の事例なんかはどれが正解かということはよくわかりません。そこの地域の人たちがそれで良しとしたのがとりあえず正解ではないかというふうにとりあえず考えています。私自身が住民税の増税に賛成するかどうかは、私は東京都民ですから東京都でどうするかという議論はした方がいいと思っていますが、高知県民とか岡山県民方がなぜこういう選択をしたかについて、彼らはおかしいとか彼らはいいとか、おかしいといってはいけないんだったらいいというのもおかしいわけですから、やっぱり岡山県の人たちが決めればいいことではないか、高知県の人たちが決めればいいことではないかというふうにとりあえず思っています。今は500円くらいの話なので、こういうのが1万円くらいの増税になったりするとどうなのかとか介護保険は今見直しの議論が各地で始まっていますが、利用料の問題をどうしようか年金から天引きしようかしまいかという話になってくるとすごくわかりづらくなってくるのでございますが、ただ、やはりその地域地域で決めた結論というのを少なくともよその地域の人間がおかしいというのは、やはり言わないほうがいいのかな、おかしいといったらいけないということは正しいといってもいけないのかなと思っているところです。結局、その地域地域で決めてちょうだいねということかなと思っているわけです。


3、各地ですすむ「まちの研究所」

@官僚制の弊害を少なくする条件としての、住民参加と監視、地方自治

 
 「顧客民主主義」(住民はサービスの顧客である。民間会社は客が評価する。自治体という公共サービスの担い手も、お客である住民が評価する)をこえる必要がある。お客としての住民は評価の結果気にくわなければ、他の自治体に移住する(ティブー「足による投票」の本来の意味は、住民は「足による投票」によってその選好を表明するので、比較的均質な住民がそれぞれに集まり、自治体は効率的な行政ができる。)。しかし、私たちは、移住をせずに、実際の投票行動を通じ、まちをつくりかえることに汗を流そう。

  VoiceなのかExitなのか(ハーシュマンは、同時にRoyality=忠誠、帰属意識と、Social Learning=社会的学習、を強調する)。

  「地方自治体といいうるためには、……、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもっているという社会的基盤が存在し、(最高裁判例)」。

  「学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。(中略) 人類が将来どうなるか、それは誰がきめるのか。これはすべての政府・非政府組織、個人、グルーブが直面している問題である。これはまた、成人の教育活動に従事している女性と男性が、そしてすべての人間が個人として、集団として、さらに人類全体として、自らの運命を自ら統御することができるようにと努力している女性と男性が、直面している問題でもある(ユネスコ学習権宣言)」。


 そのあたりが新自由主義的な構造改革の方々は顧客民主主義というふうな表現をします。先程、自治体同士が競争しますという話をしたときの答えがここでございます。住民はサービスの受け手であるとともに顧客だと、お客さんだと、お客さんが満足しなかったら逃げていくよ、普通の商品だったそうですね。例えば私ども自治体研究社という出版社でもございますので、本を作っています。私どもの本が面白くなかったら、お前のところの本は二度と読まないよになってしまうわけです。おいしくない商品を作っちゃたらもうこの店では二度と買わないよという話になるわけです。同じように自治体でも変な仕事したらもうこの自治体からは逃げちゃうよ、引っ越しちゃうよと、自治体にとって住民が引っ越しちゃいますと税収が下がっちゃいますから、引っ越されたらいやだ、引っ越されないためにあるいはよそのまちから積極的に住民を呼ぶために、例えば、うちの町は保育所を充実させましょうとか福祉を充実されましょうとか産業振興をしましょうとかというふうに競争することで良くなるよというのが競争的地方自治と言われる場合の基本でございます。よそと違うことをするわけです。小泉構造改革以前から始まっていますが、彼らが地方分権といった場合によそと違うことができるというのが地方分権です。大平町ではこんなことが出来ます。隣の小山市はこんなことができる。何となく今までの日本の地方自治は自治体が違っても住民サービスはそんなに変わらなかったわけです。でも、これからは変わっていいよというのが構造改革の議論です。違いがあるから引っ越してくる、あるいは、引っ越しちゃうという競争状態にすることで効率が最大になりますよという論理です。

 で、私たちはどうしましょうかというときに、やっぱり引っ越す方に組みするわけにはいかないわけで、私たちはこの町に住んで逃げる、引っ越すのではなくて、議会を通じてとか請願を通じてだとかでまちをつくる方を選びましょうよということです。

 これも学者なんですが、新自由主義者といったら失礼なんですが、ハーシュマンという方がいらっしゃいまして、VoiceなのかExitなのかという論文をお書きになりました。学問的にはハーシュマンという人は国際経済学の人でODAみたいな議論をされている方ですが、Voiceして抗議する、いやだったら逃げるのではなく引っ越しをするのではなくVoiceする、声をあげる、抗議をするのかExitなのかという論理を立てています。この辺くらいまでは紹介されます。二宮先生なんかも紹介されますが、同時に、人々は何故Voiceになるんだろう、何で声を挙げるんだろう、というと、何で引っ越しをせずにVoiceをするんだろう何でこの町に住み着いて改善運動をするんだろうというときに、Royality、忠誠と訳すとなんか変なんですが、帰属意識の方が正確なんですが、この町に住み続けたいと思っているRoyality帰属意識ともう一つSocial Learning=社会的学習というのが大事だよ、そういうのがあるからそこの町に残って引っ越しをせずによりよいサービスを求めてその町で頑張るんだよという議論をされます。これが、ハーシュマンの議論です。

ハーシュマンの議論と言わずによく考えてみれば日本でもそうだねというのが次の二つです。最初は最高裁判例ですが、地方自治体の定義というのを最高裁がしています。これは昭和30何年かの時に練馬区の事件なんですが、当時の23区は特別区でございまして、区長さんは選挙では選ばれませんでした。それはおかしいんじゃないか練馬区は自治体じゃないかといって訴えた住民の方がおりまして、区長さんを選挙で選べないということを裁判にした人がいまして、最高裁まで行って、結果として負けちゃったんです。練馬区は自治体じゃないから区長さんは公選でなくていいというのが判決なんですが、その判決のなかで地方自治体の定義というのをしたのでよく引用されます。「地方自治体といいうるためには、……、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもっているという社会的基盤が存在し、」というのが自治体の定義だよというのを最高裁が言っています。私たちもそう思います。自治体といいうるためにはそういう共同体意識がないとだめよと。省略しましたが、何故練馬区が自治体ではないかというのは、共同体意識というのは練馬区においても特別区においても共同体意識はあるということは裁判所も認めてくれたんですが、そのあとに今もそうなんですが、23区というのは事務権限、例えば固定資産税が徴収出来なかったり、いろんな仕事が出来なかったりする権限があるんです、東京都の内部団体でしたので、今でもそうですが、若干事務が制限されています。この社会的基盤が存在しの後に一定の権限がないと自治体と言えないというのがついていたんです。大平町とか宇都宮市と違って練馬区、23区は権限が制限されていたのでやっぱり自治体ではないんだよ、だから、首長さんは区長さんは選挙で選ばなくてもいいんだよというのが最高裁の判断でした。、ただ、最高裁の判決が出た翌年に地方自治法が変わりまして、23区の首長さんを選挙で選ぶという風に法律の方が変わってしまいました。実質上は1972年から全ての区長さんは選挙で選ぶようになりました。この裁判では、共同体意識というのが言われております。

 もうひとつは、ユネスコ学習権宣言というのがあります。大事なところは、学習とは何ですかと聞いて、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくもの。

これが学習だよということが世界的に言われていることです。1番下にも書いていますが、自らの運命を自ら統御することができるようにと努力している、のが学習なんだよ。勉強してクイズ番組で優勝するとかいい大学に入るとかが学習だよと書かれていなくて、みずからの運命を自らつくることができるんだよというのが学習だということが国際的にいわれていることです。さっきのハーシュマンなんかとも絡むことだし、私たちがまちの研究所とか地方自治を大事だと思うところに共通するようなものです。私たちが地方自治を勉強するとかまちの研究所なるところで、あるいはとちぎの研究所だとかで勉強するネットワークを作るというところは結局は自分たちの地域は自分たちで決めるんだよというふうなことかなというところです。


A 地域にねざす「まちの研究所」とは


「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」(地方自治法1条の2)。「市町村優先の原理(全権限性の原理)」

  地域のことは地域の人間が一番よく知っている。一番よく知っているものが決めるのが一番いい。そしてもちろん、決めたことには、(負担増も含めて)責任もおいましょう。決めるといっても、首長1人で決めずに、みんなで相談(学習)しながら決める(「まちの将来は住民が決める」←→市町村合併をめぐる「こんなはずではなかった」「だまされた」)。
 
地域内分権も、決めることそのものが分権されていなければならない(サービス拠点が身近にあることにこしたことはない。「役所が遠い」論はなにも、物理的な距離だけではない)。


 まちの将来は住民が決めると書いてあります。これは私どもで平成の合併のときに作らせていただきました「市町村合併」という本のサブタイトルです。中西啓之先生に書いていただいた本で、都合1万部以上超えています。やっぱりまちの将来は住民が決めるというこのサブタイトルが売れたのではないかと思っています。まちの将来はみんなで決めるだという話しです。
 
一番最初に申し上げましたように、私どもは市町村合併の反対派だと思われているのですが、賛成派ばかりですから反対派を演じるのもやぶさかではないのですが、私どもはまちの将来は住民が決めるということが地方自治だろうと思っておりますし、先ほど申し上げた350件の住民投票があることはものすごいことだと思っています。結果はどうでもいいんですよね、どうでもいいとうのは失礼ですが、結果は、350件のうち200件は賛成をしたんです。合併を決めたんです。反対は150件くらいです。どちらが多数派かといったら合併している方が多いわけです。まちの将来をみんなで議論して住民投票をやってそれで合併を決めたんです。私どもはその辺はすごい価値だと思っています。あいつら合併しやがっていいざまだなんて全然思わないわけです。350件の住民投票の最終版に合併賛成反対の選択肢の他に選択肢として町長さんに任せるなんて付けた住民投票がございます。あるいは議会に任せるとか町長さんに任せるというのは3つ位ございました。おもしろかったのは議会に任せるとか町長さんに任せるというのは1割もいない、圧倒的少数でわからないより少なかったんです。それで、まちの将来は住民が決める、その結果、賛成反対いろいろあったんですが、そんなことでございます。


Bそんなこといわなくても「まちの研究所」って楽しい

『西東京市民白書』づくりの経験から。
 
『住民と自治』7月号の山口さん(都留文科大学学生)のルポ。
 「このまちが好き」
「まちの研究所」だからといって、まちの「研究」をするだけはない。地域にねざす。

 最後は、タイトルそのもの「まちの研究所は楽しい」ズバリでございまして、私自身は、西東京でもやりました。おもしろかった。仲間ができたというのがやっぱりおもしろかったのでございます。西東京市は保谷市と田無市が2000年に合併したまちで隣同士のまちだったのですが、人口は10万人と9万人くらいのまちなんですけれど、隣のまちだけれどあまり情報交換もしなかったので、合併した後もいわば旧保谷側のかたまり旧田無側のかたまりのままだったんですが、白書を作るなかでネットワークができたのが良かったなと思っています。

 それと直近号の「住民と自治」で山口さんという学生さんが「このまちが好き」というタイトルを付けています。これ実は、山口さんが授業の一貫で財政分析をやられたんです。これの発展的学習で自分で都留市の財政分析をされてエクセルの表に落としてやったのですが、彼女に連絡をとってみますとまちなかでまちづくりカフェ、たまり場作りというのをやられていて、アパート一つ借りきってみんなの広場みたいなことをやられていたりするので、むしろ財政分析よりもそっちの方がおもしろいというので話題を切り替えて、そっちを書いてもらいました。それで彼女が付けたタイトルが「このまちが好き」でございまして、我々編集部の一同も編集部の意図を完璧にわかっていただいてうれしかったのでございます。実は彼女は都留市の生まれではなくて、確か、静岡県の富士宮市出身で学生の4年間だけ都留市に来たんですが、今就職が決まってある東京か大阪か地元に帰ります。だけど、都留のネットワークがおもしろいといってお書きになっています。

 まちの研究所なるものあるいは地方自治なるもの、最初に申し上げましたようないろいろ複雑な事例、人の権利を多数決で制限するのは良くないよねというのもございますが、やっぱりマンションはいやだよ、スーパーは来ない方がいいやというのも論理としてわかるのですが、やっぱりその辺はその町が、その地域地域で、地歩自治制度では市町村という枠ですが、それよりも小さくてもよろしいでしょうし、市町村の枠を離れた群レベルといいますか大きな地域でもよいかもしれませんし、都道府県かもしれませんし、そういう地域地域でみんなで議論することということがこれから求められているのかな、その辺がまちの研究所かなと、申しましたようにたぶん正解はないです。この地域では、増税が良かったけれど、この地域では増税しないという選択もあるかもしれませんし、そんなことをみんなで議論すること、その地域地域の方々がいろいろ議論しつくことというのがこれからの地方自治なのかな、あるいはそのために私ども研究所があって、西東京でやったような活動もしていくことなのかなということを思います。


HOME本研究所のご案内|活動・イベントのお知らせ|
過去の活動・イベントとちぎデータベース地域・自治リンク