【とちぎ地域・自治フォーラム基調講演】

小泉構造改革と自治体再編のなかの地域・住民

開催日:2004年3月28日
開催場所:栃木県壬生町
講演者:神戸大 二 宮 厚 美 教授

はじめに

 ただ今紹介のありました二宮でございます。今日は合併だとか、当地で言いますと足利銀行の一時国有化だとか、また午後の分科会では保育や義務教育の国庫負担金の一般財源化といっていますが、これの削減など様々な新しいことが地域・自治体をめぐって起こっていますが、それがどういう背景とどういう流れのなかで出てきているのか、前段はそういう話をしたいと思います。そして、後段は地域・自治体の運動に問われている課題について話すということで進めたいと思います。

[1]小泉構造改革路線と地域・自治体

1.構造改革の背景と推進力

財界の「Made in Japan」から「Made by Japan」への転換戦略

戦後日本の経済構造の転換

まず、小泉構造改革の一環として現在、市町村合併についても、いわゆる自治体リストラについても進行しているわけですが、小泉構造改革というものが一体どういう性格をもっているのか、その総論といいますか、全体像について先ず考えてみたいと思います。

小泉構造改革の前身といいますか原型というのは、90年代の後半期の橋本六大改革に遡ります。つまり、90年代の半ば以降日本は構造改革の名前でもって新しい国づくりに向かうようになってきたというのが大づかみな経過です。なぜ90年代の半ばから構造改革が進行するようになったのか。地方についても分権化というものが問題になったのは、やや時代を遡って90年代の前半、細川政権期のころからでありますが、これはいわば構造改革を先取りしたものであります。90年代の半ばに構造改革の引き金になるような大きな構造転換が経済の上でおこります。その時期からするとかれこれ10年になるわけです。

戦後、日本は一貫して輸出を中心にしながら伸びるという大企業体制のもとにおかれてきました。90年代の半ばに初めてといっていいと思いますが、日本経済が大きく体質を変えるようになりました。年配の方は、90年代の前、例えば73年から74年にかけて石油ショックが起こりその後戦後最大の経済不況のなかで日本は構造的危機の時代に突入し、構造改革の時代に入ったという表現がなされた記憶があるかと思います。80年代の半ばのいわゆる円高の中でも構造転換の時代に入ったという形容がなされたこともあります。しかし、今からすれば70年代や80年代に言われた構造転換というのは正確ではありませんでした。90年代の半ば以降に、初めて日本経済は構造的体質を転換させることになったということを押さえておくことが、今日の日本の様々なことを理解するうえで決定的に重要であります。そこのところをとらえ損なうと、市町村合併だとか地方財政危機の問題だとか、最近の自治体の内部から構造を変えようとニューパブリックマネジメントなどというものの台頭の意味がよくわからないということになります。

では、どういう意味で構造転換をやったのかといいますと、昨年の1月1日付で日本経団連が奥田ビジョンというものを発表しました。その奥田ビジョンで自らの構造転換を、「メイドインジャパン」から「メイドバイジャパン」への転換という特徴付を行いました。これはなかなか凝ったというか巧妙な表現であると言っていいかと思います。「メイドインジャパン」というのは国内産ということです。つまり、日本の国内で物が作られこれを国内外に売りまくるという体制でした。これが、従来の財界の特徴でした。こういう特質を自ら語ったわけです。これに対して、現在、日本の衣料品はだいたい8割位は中国製です。ですから「メイドインチャイナ」製というものが圧倒的に多くなっているわけです。しかし、レナウンとかユニクロだとかの企業が中国で作ったものは「メイドインチャイナ」だけれども「メイバイジャパン」なわけです。これは日本企業によって作られたわけです。だから、「メイドバイジャパン」と言うのは、日本ないし日本企業によって作られるのであれば国内外どこを問わず構わないという体制のことです。したがってこの「メイドインジャパン」から「メイドイジャパン」への転換というのは、従来は輸出を中心として日本企業は伸びてきたけれども、これからは多国籍企業ないし世界企業として世界に進出するのだということを意味することになるわけです。だから、90年代の半ば以降起こった構造転換といいますのは、要するに日本の大企業体制が輸出を中心に伸びる体制から多国籍企業の時代に突入したということなのです。

2.多国籍企業型蓄積と国内の制度改革要求

市場原理の貫徹と自由競争原理の徹底

経団連会長の奥田宏氏は、日本経済の体質というか体格が変わったのだから、古い背広がダブダブになってしまったのだからこれを取り替えて新しいスーツに変えなければいけない。古い上着を脱ぎすてて新しいスーツを着るというのが実は構造改革なんだということをいろいろなところで何度も言っています。そういう見方をするようになってきたわけです。これは非常に大きなことでありまして、戦後、多国籍企業が支配的な時代に入ったのは90年代の半ば以降初めてのことであります。ある意味では日本の歴史上初めてのことです。これでもって日本の経済構造が大きく鞍がえするということになりました。

それで、旧来のものを一切合切見直さなければならない。あらゆるものを聖域なしで全て見直しの対象にされるという動きが活発になり、それをやると経済とか政治とか社会とかが古いものから新しいものに移行しますから途中で様々な異変が起こるわけです。異変が起こりますから97年から98年にかけて金融恐慌が発生し、日本は大不況の時代に突入するわけです。それによって橋本内閣は倒れ、しばらくの間やや毛色の変わった小渕、森内閣が続くわけですが、小渕、森内閣では到底構造改革はやれない。やれないから、次に誰をというときに、もともとは加藤紘一などが造反劇をやってイニシアチブをとる予定だったのですが、時期尚早で、これは失敗に終わる。思いがけず、小泉氏政権が登場し、財界の思うような構造改革路線が進行するようになってきたという経過をたどるわけです。

日本の大企業体制が多国籍企業化いたしますと企業のものの見方というのが従来と変ってくるわけです。すなわち、従来であれば日本に企業城下町を築き、栃木県なども大企業が進出しているかと思いますが、それがガッチリとした企業社会を作ってサラリーマン層を握り、彼らを引っ張りながら日本の政治や社会を牛耳るということがあったわけです。多国籍企業時代になるとそうは行かなくなってくるわけです。そこで企業社会、企業経営のあり方を根本から見直さなければならない。金融のシステムも見直さなければならない。財政も国と自治体の関係も一切合切見直さなければならない。教育基本法も改正して教育制度も見直していかなければならないという動きが出てくるわけです。

どのくらい日本の企業が海外生産をやっているかといいますと、この数年間で申し上げますと、1年間の総売上高はおよそ140兆円ぐらいです。140兆円というと日本の国内のGDP国内総生産が500兆円でありますから、500兆円から見ると140兆円というのはおよそ四分の一くらいです。ですから四分の一くらいの経済が日本の国境の外に出てしまっているわけです。140兆円というのは私たち日本人からすればそんなものかと思われるかもしれませんが、実は非常に巨大な規模の経済になるわけです。何故かといいますと、140兆円の経済を持っている国は世界で6番目の国です。具体的には、トップがアメリ、2番目が日本、3番目がドイツ、4番目がフランス、5番目が最近躍進著しい中国、それから6番目はイギリスなんです。だからイギリスの経済くらいを日本の企業は海外にもっているわけです。もっと極端にいますと、日本はイギリスという経済を海外に持つくらいに巨大な国になっているんです。

だから、外国から見ますと日本の小さな国土の中の経済も図体が大きいけれども、外に持っている経済もイギリスくらいの経済を持っているのだからこれは大変な国だということになるわけです。

アメリカあたりに言わせれば、お前のところはそのくらいの経済を持って全世界各地で営業しているにもかかわらず、国内から軍隊を出さないなどと言うのはもってのほかである。自分たちがせいぜい世界各地で稼いでいるにもかかわらず、それらを自らの手で守らないと言うのはけしからんという恫喝が加えられること、たちまち日本の財界筋は「その通りです」と言うことにならざるを得ない。

今まではどちらかというと輸出が中心で、国内で作ったものの海外での販売が中心ですが、世界の市場が安定していればよかったわけです。ところが、今はそうはいかない。日本の企業が海外で雇っている労働者の数はおよそ340万人くらいです。日本の国内の完全失業者が、今は若干減って320万人くらいですが、一時は340万人くらいいました。だから、日本の完全失業者の数とほぼ同じくらいの雇用が海外に移っているというふうに考えてもいいわけです。例えば、世界で非常に有名な松下電器がありますが、松下電器あたりでは全世界でおよそ30万人の労働者を雇っています。ところがその30万人のうち17万人が外国で雇っている労働者です。国内は13万人くらいです。だからもう松下は、日本の国内の企業とは言えない。だから、あそこはみなさん方もご存知の通り戦後一貫して「ナショナル」というブランド名だったんですが、近年、その「ナショナル」では格好が悪いということになって、「ナショナル」というブランド名を海外向けでは廃止しました。「パナソニック」1本でということになっています。多国籍企業化しちゃっているわけですから「ナショナル」では収まりがつかないわけです。「ナショナラン」という訳にはいかないわけです。だから「パナソニック」でいきましょうということになるわけです。こういう事態がソニーにしましてもホンダにしましても、最近はトヨタにしましても続々と進行するようになってきたわけです。

国内高コスト構造の是正」策の徹底

こういう多国籍企業の時代というのは、日本の大企業体制のものの見方というものを根本から転換していくわけです。世界企業として彼らはどのように儲け、どのように世界に進出していくのかということが最大のポイントになりますから、ここから従来の政治や従来の経済の仕組みというものを根本から見直さなければいけないことになります。そこで、あらゆるものを外国と比べてみて国内では高くつく、つまり国内の高コスト構造というものが邪魔になったから、日経連をはじめとして90年代の半ば以降毎年春闘のたびごとに国内高コスト構造の是正というスローガンが財界の掲げる合言葉になってくるわけです。90年代の半ば以降、この国内高コスト構造の是正という言葉がでなかった年は1年もありませんでした。毎年この事を言い続けてきました。

中国に出かけて行ったら、中国の労働者の賃金は良くて日本の労働者の賃金の20分の1です。だから日給を払っておけば毎月20日間まるまる働いてもらえるということになるわけです。もっと低いところに行くとおよそ40分の1の賃金で働いてもらえる。だからこれでは比較にならない。そこで日本の国内にこだわらないで中国で作れるものは一切中国に移すということで、中国は今白物家電では世界で最大の工場になりつつあります。中国が日本にとって替わって、例えばアメリカ向けの輸出では世界最大の企業になっています。だから、今は日米貿易摩擦というよりはむしろ米中貿易摩擦というのがアメリカにとっては一番やっかいな問題になりつつあります。つまり、日本よりも中国を通じてアメリカに輸出する方が多くなってしまったのです。携帯電話でもそうです。今、最も携帯電話が売れる国というのは、アメリカとか日本ではなくて中国のマーケットということになってしまっています。今、中国で携帯電を生産することが、携帯業界では重要な課題になりつつあります。

こういう事態が出てまいりますと、とにかく日本の賃金は高すぎるからこれは下げなければいけない。したがって、一昨年の段階で日本の労働者の平均的な相場からいきますとベースアップは止まってしまったわけです。一昨年、財界はどういうふうにいったかというと、もう春闘の時代は終わった、春闘終焉論というものを掲げたわけです。ところが、昨年になって、もうベースアップは抑えこんでしまったから何が課題になったかといいますと、いわゆる定期昇給です。年功制の賃金でありますと、毎年毎年公務員を始めとしてある程度賃金はあがっていくわけです。この定期昇給式の賃金カーブを断固として廃止をするということが昨年の春闘の課題だったわけです。そして昨年の秋にかけて、だいたい大手の電気であるとか自動車では、いわゆる年齢給と言うのは廃止するということで、基本的に定期昇給というのはなくなってしまいました。

そこで、奥田ビジョンでは、一昨年は「もう春闘は終わったいらない」といったわけですが、昨年はなんと財界が「春闘はやっぱり必要だ」ということを言い始めました。ただし、春闘は必要ではあるけれども名前を変えてもらわなければいけない、春に闘うなどという物騒な言葉はやめて、春に毎年1回労使が討論し合うという「討」という字をあてて春に毎回討論しましょうという春討闘に切り替えて今後も春闘を続けて入ったらどうでしょうかという労働組合をなめたようなことを言い始めました。昨年から労使が年1回テーブルを囲んで話し合う場として春闘を変質化させようとしています。したがって、今年は最初から春闘の最大のテーマは賃下げです。つまり、財界が今年の春闘は賃金を下げることであるというふうに先手を打ってきたのです。幸いに賃下げというところまでは行きませんでしたが、ベースアップも定期昇給も一切無しということで今年の春闘は終わりそうではあります。こういう流れが出てきたのは財界の賃金というコスト要因を抑える戦略がある程度功を奏してきた。だから財界から言わせれば、賃金はだいたい抑え込んだと思っているわけでしょう。

そこで、賃金は終わったけれども、コスト要因をほかに眺めてみたら税金があるではないか税金が結構高くついている。日本の法人税が例えばシンガポールであるとかマレーシアだとか中国と比べてみたら高くつきすぎている。したがってこれを見直さなければならない。80年代の半ばには法人税率というのは43.3%くらいがありました。バブル経済の絶頂の時期には日本の企業は年間およそ19兆円以上の税金を収めていました。これをどんどん下がっていって、現在は法人税の基本税率は30%、もうこれ以上下げてしまったら日本は余りに税金の上で企業に優遇し過ぎだと言われるくらいに下げてきたわけです。だから税金の負担も昨年は9兆2000億円、つまりかつての法人税の半分以下に抑えこむことに成功しました。だからもう税金の負担もそれほど重くないわけです。

ところが税金を抑えこんだけれども、よく気がついてみたらそれだけではない。実は税金は9兆2000億円くらいだけれども年金の保険料は10兆5000億円ある。つまり企業からすると税金よりも年金の保険料の方が高くつくということで、今回は年金の保険料を徹底して抑えることになるわけです。年金保険料で企業の負担分が国民年金の基礎年金に行っている部分、これをともかく廃止すれば保険料の抑制についてはある程度成功するという訳で、国民年金の部分には全部将来引き上げる消費税でやったらどうですかと。それで国民年金の上の部分、基礎年金の上の所得比例部分については公的年金制度はやめてしまって個人が積み立てて自分が運用するという確定拠出型年金制度というものに切り替えて、公的年金制度を事実上私的年金制度に改めるということを経団連であるとか経済同友会は今のうのうというようになりはじめたわけです。

先だって厚生労働省が将来保険料率を18%強まであげる。それから将来の年金は、現役時代の賃金から比べておおよそ今は6割、いわゆる所得代替率というのは59%ぐらいですが、これを10ポイントくらい下げて50%にする、共働きであれば40%にするというこれまた大変な案を出しました。財界はこの厚生労働省の年金改革案に対しても猛然と反対したわけです。すなわち、それだったらまだ企業の保険料が上がるのではないか、これ以上保険料を上げるようなプランは断固としてのめない。代わりに消費税をやれということで財界サイドは今厚生労働省の案だけでは不十分だということで右から反対するということになっているわけです。ところが保険料といいますのは年金保険料だけではないわけです医療保険料もあるわけです。雇用保険料もあるわけです。そこで社会保険料をざっと計算すると、企業の負担している社会保険料は年間およそ30兆円になっています。つまり、税金の3倍くらいになっているではないか。税金は抑え込むことでうまくいったけれども、実は社会保険料の方が今は難物になっているんだ、だから社会保障制度は根本から見直していかなければならない、そうでなかったら俺達は海外に雇用も移しますよ工場も移しますよそれでもよろしいですかという恫喝を加えながら戦後社会保障制度の根本を揺り動かそうとしています。医療保険では企業が医療保険組合に労使折半なり半分払っています。このお金が現在70歳以上の老人の老人保健制度に回っている。つまり国民健康保険であるとか共済であるとか健保組合であるとかが老人医療を支えています。企業の払っている保険料の一部が老人医療に回っているわけです。そうすると財界は企業にとってはもう何の役にも立たない老人に対してなぜおれたちの保険料が行かなければならないんだということになるわけです。

介護保険でも、40歳以上の方々の保険料の一部は企業が払っていますから、このお金がぼけ老人のところに行っているではないか、こんな役にもたたない老人のために企業はなぜ保険料を払わなければならないのかと業を煮やして介護保険についても医療保険についても根本から見直していかなければならないということになります。老人については70歳以上の老人は今の国民健康保険とかあるいは健保組合とは別に老人だけを集めた高齢者医療保険を作り老人を全部加入させて、夫婦であれば一人ずつ個人加入させて保険料を払わせ、それで足りない部分は消費税をあてればいいんだと。つまり企業の保険料は一切老人に回ることがないように改めるべきだ。というラディカルな案が登場してきているわけです。

介護保険についてもそうです。2005年度にはほぼ介護保険は障害者の支援制度と統合されますが、今年の夏場にかけて非常に大きな政策的な争点になるはずであります。老人介護保険を国民介護保険のようなものに切り替える、つまり二十歳以上の人間は全て介護保険に加入させて保険料を払わせて、それで老人とは言わず若い障害者の介護サービスについてもこれで面倒見るようにする。つまり全ての国民の要介護状態に対するカバーは国民介護保険でやるんだと。この国民介護保険は年金と同じです。皆さん方一人一人がまた国民介護保険に入って保険料を払う。これでもって足りなければまた再び企業に頼るのではなくて消費税をあてたらどうかということで消費税がどんどん膨らんでいって、このままいけば財界のプラン通り行きますと消費税率は18%は避けがたいわけです。うまくすれば16%に収まるかもしれないけれども、15から16%になるのはやむを得ないんだと言うわけで、10年がかりでそういう社会保障制度の再編成と併せて消費税増税プランというものが財界からすれば当たり前のように言われるようになったわけです。

3.戦後所得再分配制度の根本的見直し

垂直的所得再分配の水平化

こういった事態がどんどん進行すると、社会保障制度も教育制度も保育制度も根本から見直されなければいけないし、国と自治体の関係についても見直されなければいけないということで、つまりは日本の戦後の仕組みというものが根本から覆ることになるわけです。ではどういうふうに覆りつつあるかといいますと、いま進行中のものはやや理論的にまとめてみますと、一言でいえば所得再分配制度の根本的転換です。

所得再分配といいますのは、私たちは様々なところで働いて賃金を手に入れます。その賃金から社会保険料とか税金が国や自治体に吸い上げられて、この税金及び社会保険料は様々な制度を通じてもう1回再分配されていきます。この過程で、例えば今まで所得のない生活保護層にはそれなりのお金が回る。年金受給者には年金額というのが支給されていく。こういうふうにして国や自治体は税金や社会保険料を集めておいて、もう一回再分配するということでこれまでやってきたわけです。この戦後の所得再分配が、一言でいうと垂直型から水平型に変わるわけです。

垂直型といいますのは、縦型です。イメージ的にいますと上から取って下に回すということが大原則だったわけです。例えば、所得税であれば累進課税で富裕層、金持ちからたくさん税金を吸い上げて、それで貧しい人であるとか所得のない人に金を回すということが当然の原則だったわけです。だから上からとって下に回すというのが戦後のどの先進国であっても当たり前の常識だったわけです。それを続けている限り上にいる企業は自分たちは高い税金を取られ保険料取られて下に回るということになるから、これを一切合切やめなければいけない。どういうふうにやめるかというと、全て廃止するわけにはいきませんから、上からとって下に回すのではなくて右からとって左に回すようにする。消費税なんかはそうですね。みんなが総痛み分けで右からとったものを左に回し国民相互が横に融通しあって、みんなが痛み分けで負担をしながら、同時に貧しい者は利益を受けるというタイプのものに切り替えていく。これが、行政や財政から見た構造改革の大掴みの特徴です。

つまり、垂直的所得再分配の水平型への転換、切り替えというのが現在進行中の小泉構造改革の最大の特徴であるというふうに考えていいかと思います。ただし、これはやろうとすると非常にやっかいな問題が起こるわけです。なぜ起こるかといったら、結論を先走るようですが、上からとって下に回すというのは、地方でいうと、大都市部に大企業が集まっていますからそこの本社部分の所得をまず国に吸い上げておいて、それを農村部に回すという性格をもっていたわけです。例えば、道路公団のやっていた事業というのはそうです。東京あたりの首都圏の高速道路というのは儲かって儲かって仕方がないくらいに通行量が多いものですから、これはものすごく潤っていたわけです。この潤ったお金を使って、農村部の高速道路を作ってきました。これが気に食わないものだから猪瀬直樹などあたりは、そんなものは止めるべきだ、地方の高速道路を作りたければお前たちは自分たちの金でやったらいい、東京とか大阪とかあたりの通行量でもって九州とか北海道の道路を作ると言うのはけしからん。財界人に言わせれば東京の通行量の収益でもって北海道の例えば十勝スカイライン見てみろと、ああいうところはあまり車は通らない。調べてみると1日平均1000台ぐらいしか通っていない。1000台くらいなら十勝スカイラインを横切る熊の数の方が多いんではないか、「熊ロード」というべきであって、そういう「熊ロード」のために東京の人たちは通行料を払っているわけではない。だからこんなものは止めてしまえという話になるわけです。

そうすると誰が困るかというと、道路族の族議員が困るわけです。自民党のなかで上からとって下に回す、都市部から吸いあげて農村部に回すときに族議員というのはそこにくらいつくわけです。そして地元に利益を引っ張ってきていたわけで、これを切られてしまったら、おれたちの立つ瀬がないというわけです。だから構造改革を進めると抵抗勢力がでてくるわけです。公共事業と言うのは大半が中央に集められたお金を農村部でダムを作るとか港を作るとか道路を作るという形で流れていく、ここのところに道路族とか建設族とかくらいついていて地元に補助金を引っ張ってきて農林漁業の基盤整備をやるとか港づくりをやるわけです。そのかわりおれのところに票をよこせということになるわけで、そのパイプが切られてしまったらとてもじゃないが自分たちは選挙に通らない。こういうやばいことが起こるから所得再分配の旧来のやり方を切り替えると、保守サイドも非常に強い反発を持ち始めるわけです。だから、これでもって小泉構造改革は保守政党から足を引っ張られ、なかなか進まないということが起ります。もちろんそれだけではありません。国民の側からも、上からとって下に回すというやり方を止められてしまっては、弱い人、低所得層は困りますから、こちらからも抵抗勢力はおこるわけです。この抵抗勢力、古いタイプの保守的抵抗勢力と革新的な抵抗勢力とをなで切にしながら小泉構造改革は前に向かって進まなければいけないわけです。だから、これを財界がバックアップしてやろうとすると、なかなか難しいわけです。

難しいですから、二大政党を立てるわけです。自民党であれば抵抗勢力を切ってでも前に走れというわです。民主党に対しては、おまえのところにはまだ昔の社会民主主義的性格のものがいるではないか、こういうのを切ってでも菅民主党が構造改革に走るのだったら金を出してもいいぞということでマニフェストを競わせるわけです。競わせておいて、財界の望む構造改革の方向に行くのであればそのマニフェストをチェックしてそこに金を出しましょうという話になってくるわけです。このような異変がおこる背景は、今申し上げた所得再分配構造の再編成という事態がある。じゃあ所得再分配の転換というのはどういう領域で起こっているかというと、これは基本的には三つの領域で起こっているわけです。

一つは、国民の階層のなかで豊かな階層から金を吸いあげて貧しい者に回すというやり方を止めるというやつです。

それから二つ目は、都市部から金を吸いあげておいて農村部に回すというやり方も止めましょう。農村部には死んでいただきますようということです。だから、構造改革で市町村合併が出てきたらこれは従来と違うわけです。地域を生き残らせるために市町村合併を進めるわけではありません。あれは地域を殺すためにやるわけです。なぜ殺すためにやるかというと、昔は、輸出を中心にして伸びる時代は、地方も大企業にとってはそこそこ役に立っていたわけです。高度成長時代に輸出でもってバンバン稼いだ企業で働く労働者は一体どこから引っ張ってきたかというと、全部農村部から引っ張ってきたわけです。だから金の卵と称してトヨタあたりを見れば明らかなように全国津々浦々からまじめでよく働く労働者を集めてこれで国際競争力を築いてきたわけです。それからトヨタが自動車を作ると言っても自動車というのは部品が少なく見積もってもおよそ2万点あるわけです。2万点の部品を作るためにはトヨタ、日産があるだけではダメなんです。ガラス産業もいるゴム産業もいる鉄鋼産業もいる。ありとあらゆる産業がないと自動車というのは国内では作れないわけです。一番部品を使う産業はどこかといいますと、これは飛行機です。飛行機は何百万点という部品の塊です。だから、飛行機を作ろうと思ったら国内に諸々の産業がないと作れないわけです。だからアメリカは日本に飛行機を作らせない。戦闘機を作らせたらやばい。なぜか、戦闘機だけでなくて日本で優秀な飛行機が作れるようになってしまったら、アメリカの技術よりも日本の技術の方が総合的に高まるではないか、これ以上日本の技術水準を高めてしまったら、アメリカの言うことを聞かずに日本が独り立ちするかもしれない。だから、戦闘機だけは絶対作らせないということできたわけです。

大衆的な商品で言いますと、自動車というのはあらゆる産業が国内にあって初めてつくられるという点で、それこそ地域の経済や中小企業というのを簡単に切っていたら、日本の輸出競争力と言うのは維持できなかったわけです。ですから、東京であれば太田あたりが世界中何をいってきても太田で作れないものは何もないというふうに言われていたくらい9千社余りの中小企業が密集して、日本の東芝にしても日立にしてもNECにしてもあらゆる試作品が大田で作られている。これを大量生産に持ち上げてそれで輸出するという体制でしたから、簡単に地域経済であるとか中小企業であるとか農村部を切れなかったわけです。ところが、今は多国籍企業でありますからもうそんなことは言っていられないということで、地域、農村部を切っても構わないし、ここが生き続けている限り食料も高くつくではないか、コメも高くつく、最近のBSEの結果を見れば明らかなように肉も高くつく、だからこんなものはもう止めちまえと言うわけで、農村部を潰しにかかるわけです。だから、これは農村部を生き長らえさせるために出てきたプランではありません。市町村合併というのは旧来と違って地域を縮小し地域を痛めつける為にやらしているわけです。だからこれは都市から農村部に金を回しながらなんとか地域を維持していこうという考え方を根本から止めるために出てきているわけです。そういう意味で地域間の所得再分配構造の転換ということがおこるわけです。

三番目は、いわゆる成長産業、どんどん伸びる産業だとか陽のあたる企業や産業が稼いだ金は衰退産業といいますか斜陽産業にある程度まわっていくという構造が旧来はあったわけです。これももはや多国籍企業からすれば止めたらいいんだと言うことになりますから、今国民内部の再分配構造の見直し、地域間の再分配構造の見直し、産業間の再分配構造の見直しこれら3つが地域社会のなかで進行しているということになるわけです。

だから、これは旧来の、景気が回復したからなんとかなるではないかとか、日本の経済が元に戻ったら何とかなるんではないかとかという甘い幻想をもってはいけないということを示しています。つまり構造改革と言うのは多国籍企業になった財界が仕掛けて、文字どおり日本の社会や地域社会構造を完全に転換させようとしているんだ、だから旧来のような判断であるとか対応ではまずいですよということになるわけです。

国民諸階層間のタテ型所得再分配のヨコ型化:個別的受益者負担主義の徹底

国民年金・老人医療・介護の消費税化、社会保険内の保険主義化

さて話をもとに戻して、じゃあ上から取って下に回す国民内部の所得再分配構造の見直しはどういうふうに進行したのか。これが最も有力に働くのがどこかといったら、先ほど申し上げた社会保障の分野です。つまり社会保障こそは富裕層、高額所得層からお金を吸いあげて貧しい人たちに回すという構造の典型だったわけです。これをお互いが金を出してそれでやっていくような仕組みに切り替えるわけですから構図は簡単です。どうしても切れない年金の部分でいうと国民年金です。医療でいうと老人医療のギリギリの部分です。これは切るわけにはいかない。介護保険もそうでしょう。だからここは全て回収的負担で何とか維持をする。その限りで法人税や所得税を充てるとか社会保険料を充てるというやり方は極力やめてしまって、出来る限り消費税にする。消費税が嫌であれば各人個人個人が保険に入るという形のものに社会保険を切り替えて、企業は負担しなくてもいいという構造にする。それで自分たちで必要な医療や保険を融通しあうようにしたらどうですか、ということがどの社会保障の分野でもでてくるわけです。

介護保険とか医療保険とか年金保険が全部これでいっているわけです。保育はどうするかというと、保育は簡単です。保育は地域で必要なサービスだから国にたかっては駄目で自治体が自分たちで持ちなさい。そのためには、さしあたり一般財源と称して地方税とか交付税でやるような仕組みに変えたらいいということで、来年度、その第1弾で公立保育園については国庫負担金は丸々削減して交付税かあるいは地方税か臨時的な所得譲与税という紐のつかないお金で面倒を見るからこれで我慢しなさいよといことになりました。これを続けていきますと、国の負担金は将来数年の間にゼロになるでしょう。ゼロになってしまったら児童福祉法は改正しなければならない。当たり前でありまして、ゼロになってしまったら国はもう金を出さない。そうしたら、各自治体が勝手にやったらよろしいということになりますから、勝手にやるのであれば幼稚園といっしょになってもいいのではないかということになります。それから、保育所であっても調理室のないような保育所があってもいいのではないか、保育師の配置についても、最低基準というのを決めていますが、0才であれば3人に1人保育師を配置しなければいけないという基準は国が金を出しているから最低基準という意味をもっていますが、こういうものも知らないよということになってしまったら、地域の中でみんなが支えあいみんなが金を出す形でやったらいいという話になってしまうわけです。

これを所得再分配でみると、みんながお金を出し合ってそれでもって自分たちに必要なサービスをまかなうという体制であるでしょう。それ以上に必要な人はどうするんですかというと、最低限よりももっといいサービスだとか良い医療が必要な人は自分たちが自由にマーケットで売り買いするようにすればいいんだということです。医療の場合であれば、保険のきく医療を一定の水準に抑制しておいて、もう医療保険では利かない部分を2階に持ってきて、これを自由にやり取りできるようにしたらいいんだという仕組みを混合診療と言います。医療保険の利く治療と保険が利かない自由診療とを混ぜてやるというやつです。これは現在禁止といいますか、現在はありません。いわゆる臓器移植であるとか差額ベッドとかいった一部の例外を除いては普通の医療では全て保険がきくということになっているわけです。なぜ保険が利くと云いましたら、たぶんここにいらっしゃる皆さんも半分くらいは誤解されていらっしゃるかもしれませんから念の為に申しあげますが、皆さん方が病院に行って診察を受け、治療を受け薬をもらって医療費が8000円だったとすれば、今は本人3割自己負担なりますから2400円を払わなければいけません。それを払うときに、窓口で診療所に払うものですから、自己負担分は病院や診療所に払っているのだと、病院や診療所に払わなければいけないものだというふうに錯覚してしまうでんす。しかしそれは違います。そうではありませんで、我々の自己負担分というのは診療所に払う筋合いのものではありません。どこに払うかというと自分たちが属している共済組合とかに3割の自己負担分を払うわけです。国民健康保険に入っている方は、国保に自分の3割の自己負担分を払うわけです。国民健康保険は自己負担を組合分の自己負担分として徴収しておいてあと7割分を追加して社会保険の支払基金を通じて満額診療所に払うわけです。ということは、各国保や健保はまずは自分たちが患者の受ける医療サービスを診療報酬を払って買い取るんです。つまり、まず保険が医療サービスを買い取るんです。買い取った医療サービスを今度は被組合員である患者さんに渡すということになります。制度的にはそういうことになっています。全ての日本の医療保険の法律は、国民健康保険であれば何を給付するのかというときに、手術であるとか治療であるとか医薬品であるとかこれを給付するということになっています。自分たちの健保組合員に対しては健保組合が治療や手術を買い取ってその組合員に給付しています。これが現物給付です。つまり健康保険は現物のサービスを給付している。給付するサービスは健康保険が診療機関から買い取って渡しているということになります。だから全て保険が利くのはあたりまえなわけです。

したがって、混合診療といういうのはあり得なかったわけです。腎臓移植とか心臓移植とかいった高度先進医療といったものを除くと全部保険は利いたわけです。しかし、今小泉構造改革が、最も執着して狙っているのはこの混合診療をやりたいわけです。混合診療をやると保険の利く医療と保険の利かない医療とに医療が分かれていくわけです。分かれて行きますと保険の利く部分は3割自己負担で済むけれども、利かない部分は自分で身銭を切って全部買い取らなければならないという仕組みになるわけです。これが今最大の医療改悪の狙いです。これをやられると、文字通りカネのない人間は満足な治療は受けられないことになるわけです。

極端な例を申しあげますと、私が明日盲腸を患い、すぐに腹を切って盲腸をとり出さなければいけないというわけで緊急に手術を受けるときに、メスで腹を切って盲腸を切開するところまでは保険が利くけれども縫うところは保険が利かないのであなた自分で縫いますかどうしますかというふうに言われたら困りますね。つまり、1から始まって10に終わる医療過程で3番目と7番目には保険の利かない手術が入っていると飛ばしてやるのか金払うのかということになってしまうわけです。ですからこれは露骨な医療差別がまかり通ることになってしまうわけです。金持連中はいいですよ、自由に金が払えますから。国民年金では1万3千3百円の保険料を40年間満期まで払い続ければ現在6万5千円くらいになるわけです。これは1階部分なわけです。これ以上の年金が欲しい方は自分で積み立てておきなさいよという話なわけです。医療保険も同じでありまして、1階部分は保険が利くけれども2階部分の医療サービスについては自分たちで金を払ってやったらいいんだという仕組みになってくるわけです。実は介護保険では既にこういう仕組みになっちゃっているわけです。1カ月に要介護度1という方はヘルパーさんに来てもらって使えるお金が16万5千円くらいです。16万5千円のうち1割の1万6千5百円を払っておけば、残りは介護保険が持ってくれることになっています。1カ月の間に16万5千円までは保険が利くわけです。ところが別に要介護度1の方は20万円の介護サービスを使ってもいいわけです。そうすると一カ月の介護のなかで16万5千円までは保険の利くサービス、残り3万5千円は介護保険の利かないサービス、これを混ぜて使っているということになります。だからこれは混合介護が介護保険では可能になったということです。

それでは介護保険は次にどういうことになるかといったら、これを老人の介護に当てはめてみると、ヘルパーさんは優しくて腕のいい親切な丁寧なサービスをしてくれる人もいる、しかし中にはつっけんどんなあまり丁寧にサービスをしてくれないようなヘルパーさんもいる、さあこういうヘルパーを各老人が選ぶときに私のところには少々お金に余裕があるから優しくて親切なヘルパーさんに来てもらいというふうにお願いしてその人を独り占めにする。ただし、独り占めする時に一時間当たり4千20円の公定料金ではなく自分のところはさらに千円弾んで5千円だしましょう、だからうちに来て欲しいんだという場合も実は混合介護です。なぜかといったら、平均以上の介護サービスを千円分だけする人だから介護保険が利く4千円までのサービスと残り千円のサービスを一緒に買っているということになるわけです。残り千円の上乗せした部分はこの方にお願いして是非来て欲しいということでありますから、バーのホステスと同じで指名料ということになります。ですから、あの方という指名をした瞬間にお金がかかるということになるとこれは指名料を自由にとってよいという仕組みにしてしまえば金のあるやつがいい介護を独占できることになるわけです。実は介護保険では次にこれを狙っているわけです。これは必ず起こります。理論上では介護保険はこれを許すような仕組みになっています。

これが進行し始めると現在大学病院なんかで起こっていることが同時に発生するわけです。あの医者さんは心臓手術をやったらピカイチだけど今は診療報酬が同じだからあの医師に自分の体を預けたい。この医師にというのはホステスと同じです。指名料です。だから二百床以上の大学病院では指名料が解禁されちゃうわけです。そうなってくると腕のいい医師はやっぱり金のある人が使えるが、お金のない人は指名料が払えないわけですからだんだん通常以下の医療サービスで我慢しなければならないという話になるわけです。だから、混合介護とか混合診療を許してしまうと、ギリギリのところは金を出し合って保険が支えるが、それ以上の部分は金を出してやったらいいんだという仕組みになりますから、医療費全体が抑制されて企業の負担する保険料なんかは軽く済むようになる。これが、小泉構造改革の社会保障の行き着く先ということになるわけです。こういった仕組みは、実は戦後なかったわけです。これをやるということは文字どおり構造が変わるということです。

地域間の所得再分配制度の見直し

分権化のネライ:「都市から農村へ」を「地域的受益者負担主義」へ

三位一体改革、総合行政体づくり、市町村合併、道州制

 さて第二番目の都市から集めて農村部に回すというのが旧来の仕組みであったということは、これはいわゆる地方交付税がそうです。地方交付税は酒税とか法人税とか所得税を一旦国に集めておいてその何割かを一つの方式に基づいて地方に回すものです。これは過疎地域や地域経済が発展しない所得もあがってこないところに手厚くまわっていくようになっています。いわゆる標準行政水準というのがあって、全国どこであっても小学校は維持しなければいけない。国民健康保険で医療水準は一定の水準に保たなければいけない。上水道や下水道についても整備しなければいけない。つまりナショナルミニマムという考え方が日本にはあったんです。ナショナルミニマムを維持しようと思ったら財政力の弱いところに交付税が手厚くまわるというのは当たり前でありまして、過疎地域にいったりすると自分のところだけの税金ではやれなくて7割から8割方を交付税に依存するというのは今では当たり前になっているわけです。その上に、いわゆる国庫負担金というものがあります。義務教育であれば学校の先生方の人件費については国が半分持ちましょう、生活保護についてもこれはどこの地域であっても不平等があってはいけないわけですから8割方昔は国がもっていました。このお金は、要するにナショナルミニマムを維持するために厚生労働省であるとか文部科学省であるとかが一定の負担をして日本の保育や教育や下水や医療などを支えてきたわけです。そのために、交付税とは別に国庫負担金というのを各省庁が出していました。これは単なる補助金とは違います。これと地方税とを三位一体と称して込みにして切り替えようというのが現在の小泉構造改革です。

これは一体どこに狙いがあるのか、これは分権化で多くの人たちがまやかされたわけでありますが、私はこんな分権化などという言葉でまやかされては絶対駄目だと思います。今までは市町村というのは正式用語で基礎的自治体だったわけです。基礎的自治体だったんですけれどもこの4、5年の間に市町村は総合行政体でなければいけないという言い方をするようになってきました。これはどういうことかといったら、市町村は住民に必要な課題を自ら総合的にこなさなければいけないんだということです。総合的にやろうとしたら人口一万人以下の小さな自治体ではもう住民に身近な行政を全て一切合切やれといったってやれるはずは無いわけです。だけれども、これからはそれをやるために分権化を進める、つまり国や都道府県がもっていた様々な財源や権限を市町村に任せて、ゆりかごから墓場までの一切合切を各自治体、市町村がやるような仕組みにするんだ、そのためにはもう国に依存してはいけない、国に甘えてはいけない、国から自立しなければいけない、分権化するんですよという話になってしまいました。これは言葉を変えていいましたら、水道も国民健康保険も保健所の維持も保育も教育もあらゆる必要なサービスを自前でやらなければいけない。つまり国に依存してはいけない。その代わり自前でやるようにするために、地方税を多少拡充してあげましょう。だから財源をある程度譲ってやってもいい。ただしこれからは交付税や国庫負担金に依存しては駄目ですよということが最初から明らかだったわけです。

そしたらもう人口一万人以下のところは、日本の市町村数の6割以上ありますが、とってもやれないということになります。いくらお前のところは住民税をどのくらい上げてもかまわないから勝手にやったらよろしいと言われても、人口が少なくて所得水準がさほど高くないところは、いくら住民税や固定資産税を勝手にとってもいいんだと言われてもとれるはずがないわけです。だから人口一万人以下のところは簡単にいったらもう死んでもらわなければならないということになるわけです。殺すための最も手っ取り早い方法は小泉構造改革の原案でどういうふうに出ていたというと、一番簡単な方法がある、それは日本の市町村から町とか村をなくしてしまえばいいわけです。ここは壬生町というところですが壬生町という名前そのものを名乗れないように制度から町とか村をなくしてしまえばいい。そうするともう市にしかなれないわけです。これを自民党は原案として出したわけです。西尾勝あたりはこれに乗っちゃって人口一万人以下の自治体は町や村という名前をなくすのがもっとも手っ取り早いからこれをやろうかということになっちゃったわけです。

これに対して町村会が猛然と反対したわけです。お前たちは日本人のふるさとを根絶させる気か、東京に住んでいる人も二代前三代前はどこかの町や村の出身なわけです。だからふるさとのルーツはどこかの町や村にあることは間違いありません。これを名前の上からをなくしてしまったら、日本中ふるさとは一切なしということになるでしょう。これは余りにもむちゃくちゃだと言うことで猛反発を喰って、私は小泉構造改革の正体はそこにあるわけだからやるんだったらそれでやったらいいのではないかとむしろ言いたいわけです。もしそれでいったらまず小泉構造改革は潰れるでしょう。もう町や村をなくすということを看板にして走ったらいい。走ってみろと。そうしたら参議院選挙も近くなって自民党は間違いなく惨敗するでしょう。みんな構造改革の正体見たりということになるわけです。

したがってそれをもろに出してやったらいいんですがそれでは自民党の議員が通らないからそこまでは言えないということで、さしあたり人口一万人以下のところには消えてもらう、殺さないまでも自滅してもらうために市町村合併を誘導し、甘い汁を交付税その他でちらつかせておいて誘導して、結果的には2005年までに合併しなかったところは2005年4月以降は補助金、交付税の甘い汁なしで強制的に都道府県が後押しして勧告して合併させようということになってきています。

これは、私はとんでもない日本列島改造プランであって、じゃあ合併して生き残ることができるかというと、将来は交付税をなくす国庫負担金をなくすということがねらいですから、合併したところも段々交付税の甘い汁に引きよせられていったのはいいが二階に挙げられてはしごをおろされたと同じです。やがて交付税はなくなってくるわけですから。なくなってくるということは過疎地域や小さな村や町は縮小の一途となるわけです。こういう筋書きです。だからこれは小手先で対応したのでは駄目です。

つまり小泉構造改革の正体をここで見ておかなければならないわけです。だからここで進行し始めるととてつもなくどんどん町や村及び市の姿も変わってくるということになるわけです。宇都宮市が合併して政令市を狙っているという報道もありますが、これをやったらたちまち思うつぼで今度はどこがなくなるかといったら栃木県がなくなるわけです。つまり栃木県はやることがなくなるわけです。大きな市が出来上がってきて、やれ政令市があるやれ中核市がある特例市もあるということになると、都道府県がもっている権限が全部政令市に移譲されていくわけでありますから、都道府県は何のためにあるのかということになるわけです。極端にいますと一番これが進んでいるのが神奈川県です。横浜、川崎は政令指定都市でありますから横浜市民は神奈川県なんか関係ないということで生活しているわけです。横浜市民という意識はあっても神奈川県民という意識はほとんどありません。大阪でありましたら大阪市民は大阪府民などという意識は持たないわけです。その上に厚木であるとか相模原であるとか藤沢があり政令市だそれから中核市だということになってくると神奈川県は実は多摩川の上流の山梨県との県境の森林地帯を受け持ち、もう一つは沿岸地域を受け持ってもう中の都市部は神奈川県は関係がなくなったわけです。

だから神奈川県の松沢知事は道州制への移行を一番先に手をあげてやっているわけです。横浜市よりも財源だって少ないという状況です。そうしたら神奈川県が生き延びようとしたら東京以外の関東を一つにまとめて関東連合のような道州制を作る。ここで自分たちのイニシアチブを握るんだということにはなります。東北あたりもそうです。宮城県は仙台が抜けているから東北道でまとめて宮城県がイニシアチブを握りますという話になっています。道州制というのがどんどん出てくることになるわけです。これは現在の市町村合併の後には必ず出てきます。遅くとも2010年代には出てくるでしょう。そうすると日本の地図といいますか列島の姿があれよあれよという間に変わるんでん。その最大の狙いは今進行している国に一旦集めた大都市部で集めたお金を農村部に回しながら何とか生かさず殺さず状態であっても地域を維持してきたその仕組みがもう邪魔ものになったからです。それはなぜか、多国籍企業がもはや中国が眼中にあっても日本の農村部は眼中にないということです。

産業間所得再分配制度の見直し

土建国家からIT国家へ:成長産業から斜陽産業への再分配の廃止

公共事業見直し、技術立国路線、大学・教育制度の再編成

今までは輸出ということを基本にし、国内の生産体制を基本にするという以上は国内のあらゆる産業や地域を見捨てることはできなかったわけです。しかし、もはや今は違うということです。そこで、地域のスクラップ&ビルドがおこると同時に成長する産業が稼いだお金が衰退する産業に回るというような仕組みもやめちまえということになります。これが公共事業の見直しであったり、道路事業の見直しであったりするわけです。

これは分かりやすく申し上げますと、たとえば福井県に行きますと福井市から北に車で30分くらい行ったところに福井テクノポートというテクノポリス構想と並んで造られた港があります。これは、立派なコンテナ船が出入りできるような水深が十数メートルという立派な港で8百億円かけて福井県が造った港です。これは何のために造られたかといいますと、もともとは福井県に自動車会社だとか電機会社が来てそれで自動車を組み立てる、パソコンを組み立てる、これを福井テクノポートから輸出するということで造ったわけです。ところが、造られた後そのコンテナ船が入っているかというと、一隻も入っていないわけです。なぜ入っていないか、これはもうわかるかと思いますが、今自動車の日産は福井県に行って自動車を組み立てるか、そこから輸出するかそんなことはあのゴーンは絶対にやりません。東芝が福井県に行って半導体を作るパソコンを組み立てるこんなことをするか、こんなことは絶対にしません。だから輸出するための港を築いても輸出するための品物がないわけです。だからコンテナ船が出入りしないわけです。東芝や日産は福井に行くのであれば一足とびに中国に出かけるんです。だからもう福井は見捨てられているわけです。もう大企業の目ではないんです。むしろ中国に出かけたほうが大企業にとってはいいわけですから、だから港を造ったのは良いけれども船は入って来ないという惨憺たる状況になっています。どういう状況になっているかというと毎朝釣り客万来で賑わっています。昨年福井の県民集会に出かけたのですが、夜の懇親会の場で国労出身のOBの方で釣り好きの方が隣にお座りになって、その人の話ではもう良い釣り場だと言うわけです。そういう利用の仕方の方が健全なのかもしれませんが、大企業からするとそういう公共事業は要らないわけです。

だから今信州であればセイコーエプソンあたりでは諏訪地域から撤退して中国に出かけるわけです。そうするとセイコーエプソンのためには電力が必要だ、きれいな工業用水が必要だそのためにはダムが必要だというダムはもういらないわけです。だからダムの建設も大企業はやめたらいいといっているわけでです。まして、諫早湾を埋め立ててムツゴロウを殺しておいてその残骸の上に田んぼを作るなどというこんなばかなことはやめたらいいんだというふうに財界人は口を極めていうわけです。愚の骨頂だあんなものはと。中海を干拓して今つぶさなければならない田んぼをまたわざわざ作るというばかなことをいつまでやってるんだ、と賢明な財界人は怒るわけです。だから東京の金で北海道の無駄な高速道路を作るなというのと同じです。ここで多国籍企業は稼いで成長するけれどもこのお金を使って衰退する産業、農林漁業であるとか土建業であるとか素材産業を維持するために金を使うことは断固として許しがたいということになるわけです。

じゃあどういうことになるかというと、その代わり大企業は自分達で稼いだ金を自分たちのために使わなければいけない。だから公共投資はもう道路を作るとか港を作るとかの土建国家的な使い方はもうやめるべきだということになります。何が大企業が欲しいかというと、これはわかりきったことですが、彼らが世界でいちばん欲しいものは科学技術力です。研究開発、技術です。技術というのは世界中どこでも使えるわけです。世界中どこにでも絶対に勝てるハイテクというのが彼らがのどから手が出るほどに欲しいものです。だから公共投資は道路予算その他を削ってもいいがそのかわり科学技術振興費は財政危機にもかかわらず伸びるという構図になっているわけです。で、しかも彼らは自分たちが出した金が直に自分たちの所に跳ね返ってこないと面白くないわけですから、そのためには一番研究機関の中で重要な大学はいただきという状態でないと困るわけです。つまり大学に回った金は企業の技術力に直結して跳ね返ってもらわなければならない。産学協同が大事だ。したがってハイテクを中心とした産学協同のためには大学の自治などと言うのはくそくらえであって、そんなものにこだわっていてはいけない。国立大学で税金を費やして自分たちに関係のない研究であるとかをやられたのでは俺達が出した金がちゃんと返ってこないではないか。露骨に産学協同をやりたいわけです。だから国立大学を廃止して4月1日から独立行政法人化、事実上民営化するというのは完全に大学を財界が乗っ取る作戦です。だから東大をはじめとして露骨なわけです。医学部に武田薬品が金はだすわ人もつけるわということで武田講座というのを作るわけです。朝日新聞は朝日構造というの東大に寄付して作る。こういう企業が金を出して自分たちの見返りになるような仕組みに大学をどんどん切り替えて企業の寄付金であるとか委託研究とかと直結するように切り替える。それに役立たないようなところは大学から切ってもいいんだ、直接に貢献しないようなところは切っても構わないんだということになってくる。何百年という歴史を持つ大学の自治がここにきてあれよという間に大きな転換点なってしまった最大の理由は、財界の所得再分配構造の転換がなすものだという風に考えなければいけないわけです。

一例をあげると、中村修二さんという方が青色発光ダイオードで特許料は個人で6百億円見返りで還るはずだったけれども企業も金を出しているから個人の取り分は2百億円だという画期的な判決が出ました。これはかなり意識的政策的な判決です。なぜかというと、今話題になっているように2百億円を稼げる商売というのは、もう松井、イチローを抜いちゃっているわけです。日本人で最も一角千金で稼げる職業というのは特許をとることです。研究開発です。だから少年達よ大志を抱け、松井、イチローではなくてこれからは研究開発、技術開発でやるのが最も出世するというイメージをぱっと作り出してしまったわけです。あれは意識的ですね。つまり、これからの日本人のあこがれであり最も金になるコースはスポーツ選手であるとか会社の社長であるとか官僚であるのではなくて、研究技術開発がいちばん良いんですということを少年少女たちに夢を与える種を振りまいたわけです。これはだから非常に意識的です。

[2]自治体の再編と地域福祉の見直し

1.キーワードは「自治体・公教育のスリム化」

「広域化プラス市場化」のなかの自治体

以上のような小泉構造改革の構造の中で自治体が揺さぶられているわけです。だから小泉構造改革を正面に据えて自治体のあり方を考えていかないと、これは話にならんということになるわけです。ただし、このやり方をゴリ押しすると自治体だとか国民も困るんですが、実は先に申し上げたように自民党の古いタイプの議員たちがこれでものすごく困るんです。何故、野中務あたりが体張って、政治生命をかけて抵抗したか。それは野中務がよく知っているからです。これだけ国庫補助金が削られ市町村がなぶられ公共事業も細ってくれば野中務が京都に行ったって園部町は群部ですから、自分たちがどういうふうにして国会に行ったかということを知っているわけです。だから保守系の議員であっても地域の経済を切るとか、地域を衰退の道に追いやるということをやったら自分たちは当選できないということが分かっているわけです。だからそういうやり方ではダメだということで抵抗するわけです。亀井静香あたりもそうです。

昨年の総裁選挙の前にテレビを見ておりましたら、亀井静香をずっと追いかけているドキュメンタリー番組にぶつかりました。彼は広島県の出身で尾道に出かけていって、ちょうどこのくらいの会場の講演会で百人くらい集まったわけですが、小泉批判を徹底してやって、小泉構造改革では日本が滅びると言っておいて最後に演説会が終わった後に「ところで皆さん、私わざわざ尾道に来て、この亀井何かにご用はありませんでしょうか」と言ったわけです。後ろの方から年配の人が手を挙げて「どこどこの地域の道路はもう整備されているはずなのに手つかず状態になっているのはどういうことですか」と質問するわけです。そしたら亀井静香がその壇上で立ったままその横にいた秘書に命じて国土交通省の道路局長を呼べとやるわけです。秘書が慌てて携帯電話でその場で国土交通省の道路局長に電話するわけです。道路局長が出てくると壇上で「ああ亀井だがね・・」とやるわけです。「実は尾道でどこどこの道路整備について要望があがっているんだがこれはどういうことになっているんだね」と道路局長を詰めるわけです。道路局長も電話でいきなり言われてしどろもどろで答えるわけです。それをみんなに聞かせるわけです。みんなに聞かせて、電話を切って、「みなさんお聞きのとおりです。亀井がちゃんと約束を取り付けました。」と言うと拍手万雷なわけです。これで彼は票を呼んできたわけです。

ところがその票田に働きかける材料がなくなってきたらこれは困るわけです。こういうところはたくさんありますから猛然と郵政族も反対をする。保育園についてもそうでしょう。保育族というのもいるわけです。私立保育園あたりが政治連盟というのを作ってそれこそかなりの票と政治献金を自民党系の議員に渡してきたわけです。ところが、保育の国庫負担金を今度は民間の保育園についても切るようなことがあると、これはとてもじゃないけれども自分たちの厚生族のせっかくの票田がなくなってしまうということになります。医療についてもすったもんだしたのは医師会を通じた医師政治連盟というのがあります。これこれはかなり強力なわけです。この医師政治連盟がフルに活動したら4百万票は固い、それどころか一時期は6百万票はいくと言われていた。郵政族もそうです。過疎地域の特定郵便局なんかがやれないような民営化一本論でいったら特定郵便局の1万8千の郵便局長の公務員としての身分が切られちゃうわけですから。そうするとつまりはそこから郵政族が読んでいた票が集まってこなくなるということになるでしょう。なぜか、「大樹会」これは郵便局長の奥さんであるとかOB層であるとか25万人の自民党の後援会を作っているわけです。これがそれこそフル活動すると4百万票を読んでいたわけです。ところがこれが動かないということになったら、とてもじゃないけれども参議院選挙は凌げないなということになるわけです。したがって、猛然と保守勢力がこれに抵抗するわけです。

ところが財界はそんなことを言っていたら構造改革は進まない、俺たちのいう通りには進まない、だから早くやれと尻をたたいて小泉政権を走らせようとするわけです。これで足りなかったら、菅マニフェストを見れば明らかなように全部構造改革でいきますよというふうになっています。つまり構造改革の本家争いに加わったわけです。これは二大政党制で、野球でいえば巨人と阪神が戦っているかのようにマスコミは描き出しましたけれども、あれはとんでもない間違いであって巨人阪神の戦いではなくて、わが阪神タイガースから言わせれば、小泉自民党、菅民主党はにっくき巨人の一軍と二軍、つまり構造改革球団の一軍と二軍なんです。決して違う球団同士ではありません。そういう争いをやらせて叱咤して前に走らせようとする。ここで切られるのは抵抗勢力です。もう一つは、民主党に加わった旧社会党のグループです。だから、先だって小沢一郎と横路がいかにして軍隊を外に出すかという時には横路が妥協して国連待機軍だったら良いだろうと、国連でなくても多国籍軍でも自衛隊を出すような憲法改正案でまとまりましょうということで妥協しましたね。これはどういうことを示しているかといったら、正に改憲型構造改革が前に進むような時代になってきたということです。

しかし皆さん、この突っ走りをやってしまったら抵抗勢力との間にも矛盾が発生するし、またぞろ政界再編成がおこる可能性があります。自民党が参議院選挙で負けてしまったら政権は変わらないがまたガラガラと変わるのではないでしょうか。つまり自民党から出ていって民主党と組んだり、民主党から自民党に鞍がえしたりというのが出てくるでしょう。だから非常におもしろいと言ったら変ですが、野次馬根性からすれば参議院選挙というのはある意味では面白いわけです。そういう流れの中で今進行中です。

そういうなかで自治体はどうかということですが、自治体は地域は自分たちで足場をもって自分の足で立ちなさいよというのが小泉構造改革です。キーワードは広域化、つまり大きくなってなるべく財政も効率的集中的にやれるようにしておいて、それで自治体の中の仕事はできるだけ自治体が持たないで民間に委ねてできるだけ安上がりにする。ですから市場化、自治体の仕事を民間に委ねる市場化路線です。もう一つは、自治体事態が大きくなる広域化路線の二つです。つまり今の自治体を動かしている車の両輪はこの二つなんです。この二つは、いったい何を目指しているかというと、これが一番大事な点ですが、実は自治体のスリム化です。図体が大きくなったらどういうことが起こるかというと、今まで町や村が図書館を一つもち公民館を一つもち保健センターも一ヵ所ありというのが、話題になっているのか火葬場で、合併したら火葬場も一カ所に集めたら良いではないか、という話になる。全体として図体が大きくなると、施設の配置や人員配置が少なくて済むわけですね。規模の経済が働くという訳で、大きい自治体だけれども内部の施設であるとかサービスはスリムになるわけです。

もう一つ、今まで自治体が直営でやっていた仕事が民営化、民間委託されれば自治体はだんだんスリムになっていくというかやせ細っていくことになります。だからキーワードは自治体をやせ細ったものにするということなんです。体は大きくても肝心なところはやせ細っていく。こういう路線が現在の流れです。

3.自治体の公共性と専門性をめぐる攻防

自治体の公共性の三基準:@共同性 A権利性 B公平性

保育・福祉労働と専門性、コミュニケーション労働としての知的熟練

したがって、今、我々が問わなければいけないのは、自治体はスリム化しだんだんやせ細って筋肉質になるかもしれないが、効率的になっていくのが果して本当の地域住民の利益なのかどうかということを問うていかなければならないわけです。むしろ逆なのではないか、つまり現在はあらゆる問題、それこそゆりかごから墓場、それから環境問題こういう領域において本来やらなければならない諸課題が増えているのにこれらをできるだけ切りまくるという体制でいいのかと言ったらそうではない。

自治体はどういう時代であっても、憲法が生きている限りはやらなければいけない公共的守備範囲がある。これは効率化するとか民営化するとかがあったとしてもおよそ最優先しなければならない基準が三つあります。これは行政学であるとか憲法であるとか私が専攻する財政学で言わせれば、キーワードで申しあげますと、一つは共同性、二つ目は権利性、三つ目は公平性です。

共同性とはどういうことかというと、地域社会でみんなに役立つ地域住民の共同の利益をになう仕事を自治体は優先して行なわなければならない。これを手放してはいけない。これは環境保全もそうでしょう。子供達の保育や教育もそうです。お年寄りの介護もそうです。地域の文化財の保護もそうです。長い目で見るとこれは地域社会の共同の利益を担うものです。ただし、共同の利益を担うといっても肝心な点はそれを誰が決めるかというと、実は研究者であるとか町長が決めるものではありません。研究者では決められないわけです。環境保全は地域の共同の利益でしょうと私が言ってもそうは決まらないわけです。なぜかと言ったら地域社会に生きている人たちは時代が分裂しているわけです。現代の市場社会に生きている限り、地域の環境を犠牲にしても土建業者は河川の改修工事もしなければいけない、ダムも建設しなければいけない。このダム建設で飯を食ってる人たちからすれば環境環境ばっかり言われたってそれはおれたちの飯の食い上げだぞとということになるわけです。徳島県の吉野川の可動堰の建設をめぐって吉野川の流域及び河川の環境が徳島市民の共同の利益なんだという人たちが一方で多数存在しながら、いやいやそんなことばかり言われたんではおれたちは生活できないということで環境ばかりが能ではないといった人たちもいるわけです。だから、環境保全ということを私がいくら徳島市民に訴えても、それは共同の利益は誰が決めるかといったら徳島市民が決めるしかないわけです。だから住民投票をやったりこういうフォーラムを通じて、今地域に求められる課題は何かということを議論し合い地域社会の共通の利益はこれなんだということを住民自身が自治的に決めなければそしてその力を高めなければ共同の利益というのは確かめられないという関係にあるわけです。いや子供の保育や教育は違いますというふうにおっしゃる方もいるかもしれませんが、子供の教育も自治体が教育委員会を通じて小中学校の教育だけで万全だと何の心配もいらないという具合に充実させれば地域の共同の利益だというふうにここにいらっしゃる方々は思うかもしれませんが、厳密に言うとそうは思わない人たちも地域にはいるわけです。誰か、最も代表的なのは塾です。塾は学校教育が充実してもらったんでは商売が成り立ちませんから、彼らからすれば客観的には自分たちの利害は必ずしも百%学校教育の充実ではない。そういうふうに地域社会の利害は残念なことに分裂しているわけです。その社会では、住民自身がその地域を見る評価能力を高めないと子供の教育も保育もお年寄りの福祉も環境も守れないということがある。そうすると署名活動をやったり住民投票をやったりで忙しくて忙しくてたまらないと悲鳴を上げる方がここにも何人かいらっしゃると思いますが、そんなことばっかりやっていたら大変です。

そこで人間はうまいことを考えたわけです。そんなにいつもいつも集会を開いたり、議会の公聴会をやったりいろいろやる必要はない。それは何かといったら、法律や条例に権利ということが明記されていれば、権利の保障は自治体は逃げられないわけです。だから、これは住民の権利なんだ人間の権利なんだ、これが明確になっている場合は住民全体が動かなくても一人であってもこの権利を実現するのが自治体、行政の課題ではないというふうにいったら、これは逃げられないわけです。だから人権というのが第二の基準になるわけです。

ただし、この人権も幅があります。子供の権利条約によって確かにすばらしい権利が明記されていますが解釈に幅があるものですから、ここでも住民が権利をどのくらい豊かにとらえるかその能力が問われてくるわけです。人権だって住民の高い評価能力に支えられないと発展しないという関係になっているわけです。ここでも最後は住民の力というものがポイントにならざるを得ないわけです。しかし、高まるまで待っていられない場合には一人でも権利を行使して言って行かなければならないということになるわけです。

ちょうど今年、朝日訴訟で有名な朝日茂さんがお亡くなりになって40周年にあたります。朝日茂さんの「人間裁判」という手記集をこの一月に再刊したんですけれども、解説を頼まれまして昨年の秋、朝日さんの関係の文献を読んで勉強し直しました。みなさんご存知かもしれませんが1957年に日本で初めての憲法を暮らしに生かす裁判が行われました。朝日茂さんというのは結核を患って国立療養所で生活をなさっていた方です。生活保護で闘病生活をされていたわけです。ほとんど音信不通で30年ほど生き別れ状態にあったお兄さんを岡山の社会福祉事務所が見つけてきて、お兄さんにお前の弟は生活保護で入院しているから仕送りしろと迫りまして、そのお兄さんに月々千五百円の仕送りをしろと迫り、結果的に仕送りせざるを得なくだったわけです。お兄さんも大変だったんですが、千五百円茂さんの手元に送るんです。ところが、当時、福祉事務所はその千五百円のうち九百円は医療扶助つまり生活保護の医療費として国に召し上げる、残り六百円があなたの取り分ですよということでこの六百円が生活保護の基準だったんですが、この六百円を手元に残して九百円は取り上げてしまうわけです。この六百円の生活というのは憲法違反なんだということで裁判をやるわけです。六百円の生活がどういう生活かというと、イメージを豊かにするためにいますと、入院生活のなかで二年に一枚だけ肌着が買える、パンツは一年に一枚だけ買える、それから下駄も二年に一回だけ取り替えることができる、極端なのは一日に使えるチリ紙はわずか一枚半だったんです。裁判でこれが問題になりまして、一枚半ではトイレに行って拭けないではないかと言ったら、当時の厚生省は社会保障審議会の会長で早稲田大学の教授を証人に立てて厚生省サイドの証言をやらせます。彼はどういうふうに言ったか、当時日本のチベットと言われた岩手県では、岩手県の人には申し訳ないのですが彼はそういう言い方をしたわけです、農村部ではまだ便所で用を足すたびに藁とか草で拭いているところがまだまだあるんだと、だからいちいちチリ紙を使わなければ最低限の生活が満たされないということではないという発言をする。その裁判が1960年に第一審の判決を迎えるわけです。安保闘争が終わって10月の頃です。有名な浅沼判決というのが出るんです。浅沼判決は日本の裁判史上金字塔のように残る判決でありますが、月六百円の生活保護は憲法第25条に違反するということはっきりと明言したわけです。生活保護は憲法第25条を具体化するための法律なんだから月六百円で1日一枚半のチリ紙しか買えない、朝、結核の患者だから体は弱りきっているからせめてメザシ1匹食べたい。つまり食欲がわかないからメザシ1匹あったらこれで食欲がわく、メザシ1匹を要求するのが贅沢なことなのかという要求をするんですが、厚生省はこれを退けるわけです。その時にこのような生活は憲法第25条に違反なんだ、健康で文化的な生活を保障するというのはそういうものではないんだということで違憲判決を下すわけです。そして重要なことは当時国の側は、そうは言っても財政に制約がある。国の予算も限られている。だから憲法で書いてあるといっても財源がないんだから我慢してもらうしかないんだという話をやったわけですが、これは驚くべきことでありまして、それを予算制約説といっていたんですが、予算制約説は本末転倒であると述べたわけです。つまり、予算が先に立つのではなくて人権が先に立たなければならない。予算というのは人権の原理に基づいて支配遼道されるべきものであると述べているわけです。つまり人間の権利というもの先ず構えてこれを保障するために財源は後から補なわなければならない。後からとってこなければいけない。こういう判決を下すわけです。

これでもって日本の歴史上初めて憲法第25条の裁判が進行するということになったわけですが、第二審では覆る。厚生省の巻き返しにあいまして、第二審が終わった後朝日茂さんは57年のころから体がボロボロで毎日毎日いちごジャムのような血痰を吐きながら入院生活のなかで裁判闘争やるわけですから、生きることが裁判闘争そのものだったんですけれども、ついに命尽きてお亡くなりになるわけです。しかし、お亡くなりになる前にこれで裁判が終わりなってしまっては大変だというので当時の日本患者同盟という患者さんの集まりの要請を受けて、当時28歳の若者、朝日健二さんという方が養子になります。明日に亡くなくなるというその前の日に岡山に夜行で行って、それから朝日茂さんの本籍のある津山まで行きます。五時を過ぎて六時か七時で役所は閉まるんですが、役所はこういう時は偉いと思うのですが、それを聞きつけた、これは正に公務員として栄えある仕事だと思いますが、ある女性の公務員がともかく私が待ってあげるというわけで、五時を過ぎて役所は閉まっていましたが自分は机の前で待っていてくれた。その人のお陰でやっと養子縁組の手続きが終わったその翌日に朝日茂さんはお亡くなりになりました。養子縁組をやりましたので裁判闘争は続けられます。1967年、裁判開始後10年になりますが、最高裁の判決が出ます。しかし、実際上は判決をしませんでした。養子といっても生活保護の権利は相続できないんだという門前払いの判決を下して、最高裁は判断を下さなかったわけです。それで一審判決が正しかったのか二審判決が正しかったのかまだ決着がついてないわけです。だからその後、朝日茂さんのように闘うということで社会保障の闘争運動がでてくるわけです。これがつまりは人権というものを武器にして初めて日本の裁判に一つの扉を開いたということです。そこまでいかなくても権利を掲げて行政がやらなければいけない課題をはっきりさせる。スリム化だけが能ではないということをはっきりさせる必要があります。

三番目は、住民に対して地域に対して行政は公平でなければならない。この公平というのは地域のなかで非常に重要です。合併してどこかにあった公民館をコミュニティーセンターにまとめてしまって、今まで近くにあってそれぞれ便利に使っていたものが使えなくなってしまう。これは地域のなかで不公平が発生するではないかということが言えるでしょう。それから、学校給食なんかでも、今、小学校前までに六割の子供達がアトピー性皮膚炎を経験する時代です。そうすると小学校の給食であってもアトピっ子達は動物性たんぱく質が食べられませんからいわゆる除去食、卵だとか肉を使わない給食を要求し、そういう給食でないと自分たちは食べられないんだから給食を受ける権利は子供にとって平等に有るんですけれども、これを公平に保障しようと思ったらそういう給食体制をとってやらなければならないわけです。そういう子供達に耳を傾けてやらなければならない。これは行政の充実を図る大変重要なことです。

そういう意味で共同性と権利性と公平性というのが自治体を発展させる拠り所になるわけでありますけれども、これらを出発点にしながら小泉構造改革が自治体に襲いかかってくるこの攻撃に闘わなければならないし、判断もしていかなければならないということを申しあげまして私の基調講演としたいと思います。


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